Untold FRONTLINE [大津司郎サイト]

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2009ソマリア取材報告 [2]

1992年、12月8日、大勢のメディアが待ち構える中、先遣隊がモガディシュの海岸に上陸した。この介入を軍事的人道介入(Military-Humanitarian-Intervention)=Aあるいは武装した人道主義=iArmed-Humanitarianism)という。
正式には国連安保理承認の下、多国籍軍(UNITAF)という形をとっていたが実際にはアメリカ軍主導で作戦名を「希望回復作戦」といった。内戦で荒廃した途上国の人間たちの命を救うために国際社会が(真剣に)軍を動かしたのは後にも先にもこの時以外にない。何故ならアメリカ主導の「新世界秩序」の前祝になるはずだった史上初の試み=軍事的人道介入がその後の戦いの中で完全失敗に終わったからだ。

一応の成果(食料配給の確保、餓死率の減少など)を印し、希望回復作戦は終了、4千人前後の緊急対応部隊(QRF)を残留させて93年3月アメリカは去った。同時に人道支援を目的としたUNOSOM-1(国連PKO/国連ソマリア派遣団)もまた、ソマリア国家再建、武装解除といったより困難な領域に踏み込んだUNOSOM-2へと引き継がれた。

だがそこに大きな落とし穴があった。アメリカが去った93年3月以降重要な転機が訪れた。アイディード派を中心としたソマリア武装勢力による国連部隊(UNOSOM-2)、アメリカ軍への攻撃が激しさを増したのだ。6月、アイディード派の武器庫査察に訪れたパキスタン部隊が待ち伏せ攻撃を受け22人が殺された。7月、急遽、国連はアイディードの逮捕状交付を決定。8月、9月には道路爆弾などによりアメリカ兵の死傷者もまた増えた。

以後、ソマリア再建、人道支援の道はその道筋から大きくそれ、一気に一軍閥との全面対決、戦争への道へと転化した。アメリカはアイディード逮捕のためソマリアにレンジャー、デルタなどの特殊部隊を投入、10月3日、アイディード派拠点壊滅のための大規模作戦が開始された。3日午後から4日早朝にかけて行われたアイディード派との戦いでアメリカは予想外の手痛い敗北≠喫した。ベトナム戦争以来初めての地上戦でアメリカは、2機のブラックホーク・ヘリを撃墜され、さらに18人の戦闘員を失った。

この時の戦闘について、『ブラック・ホークダウン』(マイケル・ボーデン著)と同名のハリウッド映画に詳しい。それはスキニー(全体的に細身のソマリア人たちを指す)≠ニ見下していたソマリア民兵にアメリカが敗れた瞬間だった。その後も混乱が続く中、95年、アメリカも国連もソマリアから撤退していった。以後世界から忘れ去られた国となったソマリアは「失敗国家/Failed-State」というレッテルを貼られたまま、テロの温床として危険視されてきた。

2回目のソマリア取材は2001年12月だった。9・11同時多発テロから約3ヵ月後、オレは再びモガディシュにいた。10月にはアメリカはビン・ラディンとアルカイダが潜むといわれるアフガンに対して反テロ戦争を開始した。そうした流れの中で何故ソマリアを取材したかというのは、ビン・ラディンとアルカイダを中心としたテロ攻撃の原点がソマリアにあると考えたからだ。

専門家によれば93年10月のモガディシュの戦いの時点で、当時スーダンに潜伏していたビン・ラディンがすでに何らかの形で対アメリカ軍との戦いに参加していたという。98年にはケニヤの首都ナイロビのアメリカ大使館が自爆テロ攻撃を受け、200人以上の市民が犠牲になっている。9・11同時多発テロの直後、ソマリアを取材することによって9・11のより大きな背景、構図が見えてくるのではないかと考えたからだ。

2002年にはケニヤの東海岸、モンバサの郊外にあるイスラエル人専用のビーチ・リゾート・ホテル(パラダイス・ホテル)がやはり自爆テロ攻撃を受け30人近い人間が亡くなっている。犯行直後複数の犯人はソマリアへ逃亡した。犯行後約1ヵ月後に訪れた爆破テロ現場には想像を超えた爆破跡が広がっていた。すべてが真っ黒に焼けただれ吹き飛んでいた。爆発の凄まじさが目の前にあった。さらに犯人たちはモンバサの空港を飛び立った直後のイスラエル機に向かってミサイルを発射、機は辛くも難を逃れた。インタビューをした近くの目撃者(農民)に寄れば道を聞きに立ち寄った犯人(アラブ系)の額にはいわゆる礼拝ダコがあったという。

不安と動揺の中、眩しい太陽が照りつけるモガディシュの飛行場に着陸、TFG(暫定政府/アメリカ、国連、エチオピアなどの支援を受けている)の支配下にあるイミグレーションでパスポートにビザのスタンプを押してもらった。現在外国人のビザの取得は難しく事前にナイロビで周到な根回しを行った。
建物の外に出るとそこは兵隊と民兵だらけだった。兵隊は政府軍兵士とAU(アフリカ連合)から派遣されているAMISOM(アフリカ連合ソマリア派遣軍)所属のウガンダ兵たちだ。

敵対するイスラム過激派/アルシャバブ(Al-Shabab)による自爆テロ攻撃を防ぐため突入防止のコンクリートブロックやトラックなどが置かれていた。さらにソマリアの戦いを象徴する数台のテクニカル≠ニ呼ばれる荷台に重機関銃を積んだ武装ピックアップ・トラックが周囲の緊張を高めていた。一端ホテルに荷物を置くと、直ぐに重たい防弾チョッキを着せられ、ヘルメットを被らされた。
戦闘の犠牲者たちに会うためオレタチは直ぐに病院に向った。車はトヨタのランドクルーザー、エスコート(護衛)の一人がオレの車に乗り込み、さらに5人の護衛が乗った車が後ろに着いた。ターゲットにならないために車は常に飛ばしている。フロントグラス以外すべての窓にはグレーのフィルムが貼られている。

千人近い患者が収容されているメディナ病院を訪ねた。病院長の口からは、次々と悲惨な状況が語られた。ソマリアの歴史始まって以来、この3年間(2007年以降)ほど危険で残酷な日々はないと病院長はカメラに向って話してくれた。収容患者の95%は戦闘による犠牲者であり、いつどこで、何が起るのかまったく予測がつかないとも言った。病棟を訪ねるとベッドの上に多くの人間たちが横たわっていた、女、子供そして老人・・・、ほとんどの者が身体に包帯、あるいは大きなガーゼを当てていた。いつここに来たのか聞くと驚いたことに、ほとんどが昨日、3日前、あるいは1週間前などと答えた。今も日々戦闘が繰り返されているということだ。

腹に直接銃弾を食らった子供、市場で買い物をしているとき飛んできた砲弾の破片が突き刺さった者、家に砲弾が飛んできて家が破壊され家族のほとんどを失った女等々、ほとんどが戦闘に関わりのない市民たちだ。国連、NGO、国際メディアが撤退した今、かれらの苦悩が外部の世界に伝わる機会はほとんどない。

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