Untold FRONTLINE [大津司郎サイト]

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「アワー・ジャーニー・オブ・AFRICA」(2005〜2009) [6]

9時半、いつものミニ・バスが来た。オレタチはIDPキャンプへ向った。ナイロビ方向へ国道を走ること約30分、右手に白いテントの家々の塊が見えてきた。キャンプだ。ややまとまりに欠けるがUNHCRと印された数多くのテントが広大な敷地内に点在していた。オレタチの車が止まると、数人の男たちが寄ってきた。意外と顔は温和で笑顔が見える。スティーブが何の問題もない、警察関係もうるさくないし、ダン(2号車の運転手で元警官、野球帽なんかかぶって可愛い感じだがスラム取材なんかに連れて行くとあれで結構強面に変身する、たまにBBCのアテンドもしている)に任せれば大丈夫だと言ってナイロビに帰ってしまったので、若干の不安はあった、というよりオレはセキュリティ面で非常に緊張していた。でも目の前の人たちの笑顔を見たらそうした不安もなくなった。はじめの内は熱心に話を聞いていたが、甲斐もいるし、オレはカメラを回すことにした。こうした取材は得意だ。ソマリア、ルワンダ、コンゴ、スーダン、ウガンダ、さらにエチオピアからブルンディ、そして地獄の最前線アンゴラまで、数え切れないくらいの人間たちに話を聞いてきた。

甲斐もまた熱心に話を聞いている。ここに来て1年以上経つ被災民たちは暮らしの窮状、とくに住む家を何とかして欲しいと強く訴えていた。しばらくすると甲斐は被災民たちを支援するためのお金を送る銀行の口座番号まで渡されていた。もちろん教授の言うように何とかしてあげたい気持ちも一杯ある、だけど、「じゃあどう具体的にすればいいのか、なかなか難しいですね大津さん」「そうなんですよね・・・・、これが・・・・、でも先生、こうやって訪ねてきて彼らと触れ合って、話を聞いて、日本にたとえわずかでも伝えることができれば・・・・今のところはそれくらいしかできないし。ボクラはこうやって君らのこと忘れてないよとか」

「ホントにそうですね」そう言ながらゆっくりと甲斐は年長者たちと歩きながら話を聞いている。これこそ甲斐の言う(国際政治の)最前線だ。朝、学生たちの前で話したことを思い出した。「みな現実に血を流している、家を追われ、肉親を失っている・・・」、それがホントは「スタンダードなんだよね(誤解しないで欲しい、それが良いと言っているのではない)」なんて言ったことが今目の前にある。そのスタンダードが決して良いことではないからみな別の意味で戦っているとも言える。じゃあ、「血を流さない、ある意味スタンダードでない」日本が全面的にいいかというとそうともいえない部分が最近次から次へと明らかになってきている、日本もまたある意味限界に来ている。一言で言えば「システム」の問題といっていい。それを巡って血が流れ、目の前にある現実が生まれている国と社会、そしてIDPキャンプ、ある意味、かれらはそうした限界を突き詰めた人間たちだ。多くのリアルな体験を潜り抜けてきた人間たちだ。オレ流に言えば人間の「最先端/フロントライン」だ。当然、血を流さないために、血を流していない人間たちは彼らから何かを学ばなければならない。一見温和な表情の向こうに人間の生と死についてよほどリアルな見方を彼らは持っている。ルワンダでもそうだが何故、笑顔が憎しみにさらに殺戮へと変化するのか、オレタチには幸いにもそうした体験がない、これからも無駄な血を一滴でも流さないためにオレタチは彼らの「知」「経験」から多くを学ぶ必要がある。

学生たち、さらに社会人参加のSさん、Oさんたちを見てオレの胸は何故か切なく疼いていた。何故か?みんなの笑顔がとても素敵だったからだ。こんな生き生きとしたみんなを見たことがない、人間----逆境と戦う被災民たちの中に入って楽しげ≠ナさえある。何故だろう、待っていた被災民たち≠フ心が受け入れてくれたからかもしれない、スラムでもそうだった。あえて言えば今の日本にはない人間≠ェそこにいたからだ、たとえ家もーも、何もなくても本当の人間たちがいたからだ、言葉を変えて言えばボクラ≠ェ繋がる糸、絆がそこにあったからだ。

だが砂埃の舞うキャンプはどこか違っていた。殺し、殺されてもそれでも笑顔で、暖かく人を受け入れ、限界まで努力する。アフリカでは今、「和解/reconciliation」という言葉が使われている。南アのアパルトヘイト体制、ルワンダ虐殺において敵対してきた者たち同士がギリギリのところで許し、理解し合う、先にも書いたが幸いにも今の日本はそうしたスタンダード≠フお世話になっていない。なっていない今の間にあらゆる手立てを使って「絆」の再生、復活を図らなければならない。逆説的だが「絆/(許し)」があるからこそみな「血」を流し合えるのだ。そして許し合えるのだ。確かに一時的にそれは「絆」さえ引き裂き、ぶち壊す、しかし問題は社会がその再生の力をどれだけ秘めているか、どれだけ鍛えられているかだ。その「絆」が今のオレタチにはない。都会の朝の殺気だった満員電車を見ればわかるだろう。

そうか「夢に出てきた」「何故か忘れ難い」、それがこの被災民キャンプの本当の人間たちとの出逢いだったのか、書き続けてゆくうちにやっと見えてきた。

オレはもう一度撮影したビデオを見てみた。みなやっとほんとうの人間たちに出会った顔をしている。政治的暴力≠ェ原因で故郷を追われ苦難の中に生きる人間たちの中で逆に笑顔と元気をもらっていた。

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第1回(2005年)から今回の第5回(2009年)までノンストップで一気に書き続けてきた。アワー・ジャーニー・オブ・AFRICA=A何故そんな気分になったのか、そのワケ、それは今回のスタツアの中にある。それほど「忘れ難く」「夢にまで出てきた」、それが特に今回の甲斐ゼミ・アフリカ・スタディツアーだった。

これは君たちと旅をした年のいったオヤジのモノローグ(つぶやき)だと思って欲しい、深い意味はないかもしれない。それでも何かを書き、残しておきたかった。

オレと君たちとの生きてきた時間の差は埋めようがない、仮に後10年くらいオレが生きるとして、それでも君たちはまだまだ30代の人間盛り、それからさらに40年も50年も生きていくにちがいない、その頃には完全にオレの記憶は消えている。たとえオレのことは消えて去っていったとしても、それでもどうかあのアフリカの風と匂い、そして光を忘れないで欲しい。

                 To be continued……2009・9月.

●最後に「セキュリティ/安全」をすべてのベースにした甲斐ゼミ・アフリカ・スタディツアーの3原則?それは「コミュニケーション/繋がる力」「イマジネーション/他者への想像力」そして「プレゼンテーション/表現力」だ。

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