Untold FRONTLINE [大津司郎サイト]

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「アワー・ジャーニー・オブ・AFRICA」(2005〜2009) [2]

拓大教授、甲斐信好が率いるアフリカ・スタディツアーは今年(2009年)で5回目だ。周囲の心配、危惧をよそにこれまで一度のトラブルも無く、いつも全員笑顔で帰還している。1回目(2005年/10人)はタンザニアのエイズ患者、ストリート・チルドレン、協力隊訪問、2回目(2006年/11人)はケニヤ北部、スーダン難民たちが生きるカクマ難民キャンプ、そしてスーダン内戦の救援基地ロキチョキオ訪問、3回目(2007年/16人)がルワンダ虐殺、とくに虐殺のあった教会を巡る旅と生存者たちへのインタビュー、4回目(2008年/10人)が同じく関心の高いルワンダ(コンゴの被災民キャンプを予定していたが、治安上の理由で国境で引き返さざるを得なかった、事実翌月の10月には東コンゴ一帯は戦場と化した)だ、そして5回目の今年(2009年/15人)は、とくに格差、選挙と民主主義など世界的問題を意識した「ケニヤ、その光と影/スラムとサファリ」だった。

甲斐とオレの出会いは偶然の出来事だった。

言うまでもなくサファリ・ツアーや紛争取材のベースとしてのオレとケニヤとの付き合いは長い、とくにテッコ・ツアーズの社長でルオ族のエリアキン・オキディとは10年来の付き合いだ、それ以前はマシューズ・オウマというやはりルオの男が経営するゴロンゴロ・世界というツアー会社と仕事をしていた、しかしオウマがエイズで死んでからはずっとオキディとその右腕だったスティーブとの間で仕事をしてきた。オキディとはソマリア、またつい去年(2008年)には南部スーダン石油地帯取材にスティーブをボディガード兼情報収集役で連れて行った。テッコにはその他数多くのツアーや日本のテレビの仕事を紹介した。

そんな中たまたまオキディの異母兄弟のヘンリーが拓大の国際学部に留学していた。ある日ヘンリーがオレに「シローさん、アフリカの話をゼミでしてくれませんか」と言ってきた。オレは気軽にいつでもOKだよと答えた。ゼミで話をする当日、オレが高尾の駅に着いてタクシーに乗ろうとしていた頃、ヘンリーは教授室の廊下をうろうろしていた。予定していたゼミの渡辺先生(現学長)が急用でいなくなったのだ。困り果てたヘンリーは廊下を行きつ戻りつしていた。その時長身の一人の男が歩いてきた。甲斐信好準教授(当時)だ。甲斐は困り果てたヘンリーの願いを直ぐに快く聞き入れた(この話は今回のツアーではじめて具体的に聞いた)。オレと甲斐の出会い、そして二人が主催するアフリカ・スタディツアーはその時決定付けられた。もしその時、甲斐が快く即断してくれていなかったら、後日またということで、甲斐とのこの様な出会いは実現していなかったかもしれない。

甲斐はその場で直ぐに自分のゼミをオレの話に振り替えてくれた。教室の中には10人?ほどの学生諸子が控えていた。中国人留学生も何人かいたように記憶している。初めてのことでオレも緊張していた。ただ一気に何かをしゃべりつくしたことはハッキリと記憶している。とくにソマリア紛争の例を挙げて、「軍事的人道介入」について体験を交え、ホワイトボードを真っ黒にして話したことは忘れない。甲斐もまた学生たちも真剣に聞き入っていた。講義の後甲斐が言った一言は何故か今でも耳の奥に残っている。オレが話し終わると甲斐は「目から鱗が落ちました」と言った。その後オレは図々しくも「先生、アフリカを知らずして国際政治は見えませんよ」とも言ったらしい。何処の馬の骨ともわからない男を快く受け入れてくれた甲斐のオープンな姿勢に今でも心から感謝している。

オレはさらに調子に乗ってしまったかもしれない、「先生、今度ボクとアフリカに行きませんか!」と、なんて奴なんだオレは、と思ったときなんと甲斐は、「是非今度ご一緒させてください!」と返してきた。こうしてオレと甲斐のアフリカへの旅は始まった。甲斐の笑顔の奥に隠された絶妙なバランス感覚、そして引き締まった心根、十分アフリカを歩ける男だとオレは甲斐を信頼した。

一般的に言われているスタディ・ツアーはほとんどがNGOが主催し、彼らの活動の理解、支援そして現地の人間たちとの交流が主だ(他にも幾つかの定義があるらしいがオレにはわからない)。オレが考えるアフリカ・スタディツアーはしかし、それとは違う。オレは何よりもアフリカの今、そしてアフリカが抱える問題を直撃する体感的旅を主としている。虐殺現場、難民キャンプ、スラム等々・・・、そこから人間と日本とそして自分たちへのフィードバックを考える。何よりも今/同時代≠フアフリカの問題の最前線/フロントラインを体感する。見方によってはそこにはビジネス・チャンス≠ウえある。それがオレが考えるスタディ・ツアーだ。

だが、常日頃オレが得意気に語る「アフリカ・フロントライン」がかなりのフライング気味であるということ、ある意味年令を重ね現場を数多く踏んでいるオレの独りよがり≠ゥも知れないことが今回(2009年)のツアーで解った。先にも書いたが、若い学生たちにとって、それ----スラムと被災民キャンプ----が人間的政治的現実である以上に、十分に理解し切れない、ある意味今の自分からはかなり遠いテレビ的、ゲーム的?追体験に感じられていることがわかったのだ。彼らとオレの間にあるこの落差はオレにとって軽いショックだった。オレはそうした感性で遊ぶ以前に仕事として目の前の現実をすべて受け入れてしまっていた。戦いも、殺しも、貧乏も何もかも、金を稼ぐ、オレもまた生きてゆかねばならない現実、手段----もっと言えばカレラを飯の種にしてだ----として受け入れてしまっていた。だから自分の立場を守る為(仕事の遂行、良い画を撮る)に難民たちとも平気でケンカをした。もちろんオレだって脆弱な感性と頭を使って一生懸命、目の前の悲惨、悲劇≠理解しようとしていた。それでも、現実/痛み、苦しみといった実感が湧かないほどには距離はなかった。しかし、若い今の日本の感性は違っていた。彼らは目の前の現実≠ニいう大きな壁を前にして懸命にブリッジをそしてアプローチを探していた。それでもオレは迷い、悩みそして彷徨う心を持つカレラが可能性に満ちていると思う、人間としてどこまでも自分の感性を掘り下げる。そこから新たな自分を見つけて行く。まだまだ希望もチャンスも十分にあると思う。勝手な思いだがもう一度でも二度でもアフリカに帰ってきてもらいたいと思う。

なんか、拓大、甲斐教授とオレが率いるアフリカ・スタツアの結論を言ってしまったみたいだ。5回目のアフリカ・スタツアとして今回の「ケニヤ、光とその影」を歩き体感した時、1回目のタンザニアは確かに手探りで、まだまだ人間と現実への迫り方は甘かったかもしれない。それでもダルエス・サラーム在住の友人の根本君が一生懸命アレンジしてくれた内容に十分にオレタチは感動していた。ダール(Dares-salaam)のストリート・チルドレンたちが集まり、寝食を共にするンドゴ・スクールの金網の向こうに見た子供たちの食事を作る大きな鉄鍋が瞼の奥に残像している、案内のおばさんがここで夜になるとみな子供たちが寝るんだよと教えてくれたダレもいない金網越しのコンクリートの床が午後の陽に光っていた。エイズの患者たちとの交流も実に暖かく、そして真摯なものだった、はじめて重い病気に苦しむ患者たちと対面する学生たちもまた解らないなりに十分に患者たちの気持ちを受け止めていたように思う、何故かオレもちょっぴり感動したりもした。ただ、明らかに違っていた、少なくともカレラ(患者たち)は、今回のキベラのようにスラムの中で、二重、三重の苦しみに喘ぐ人たちではなかった。ある意味、タンザニアののびやかな村々で静に生きる人たちだった。だからなのか、学生たちに今回のキベラで感じたような困惑と衝撃は感じられなかった。そう言えば最後の日、ミクミ国立公園に向うバスの中から見たトウモロコシ畑の向こうに沈んでゆく真っ赤な夕日に甲斐とオレはお互い「素晴らしいですね」と言ったのを覚えている。

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