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クライング・サウス 〜 Crying South 第5回

【トライバル・ミリシア/ガバメント・ミリシア/アラブ系ミリシア】

こうした家畜強奪の戦闘集団がより高性能な重火器で武装され、組織化され規模も大きくなるとそれは単なる家畜襲撃集団以上の存在となる。非正規軍という意味で、そうした集団をミリシアと呼ぶ。民族、部族を中心にできているので「トライバル・ミリシア(Tribal-Militia)」という時もある。最も力を持っていたのがアパー・ナイル(上ナイル/現在のジョングレイ、ユニティ・ステイツ)を根拠地にするヌエル族のトライバル・ミリシアたちだ。中でも一部SPLAの前身ともなった「アニャニャ--2」、「ホワイト・アーミー」などは強力だった。ヌエル以外にもMundari、Murle、Taposaなど多くのトライバル・ミリシア集団がいて、牛、牧草、水などをめぐって隣人同士、さらにSPLAなどと戦っていた。

ヌエルの最大のライバルは隣人であり、ほとんど同じ文化、生活スタイルを持っている南スーダン最大の民族、ディンカだ。ディンカは反政府ゲリラ、SPLAを支配している。リーダーのジョン・ガラン(故)もまたディンカだ。
民族間の主導権争いが時にヌエルを反ディンカ、反SPLAへと向わせた。さらにスーダン政府はスーダン最大の石油地帯、アパー・ナイルを戦略的に最も重要視し、莫大な投資をしてきた。そうした環境〈主導権争い、反SPLA、石油利権等々〉の中で、SPLAに参加していた、リエク・マシャール率いるヌエルの一グループが91年分派、SPLA-UNITEDを結成(後のSSIA/南スーダン独立軍)、政府側に寝返った(前出)。その周辺に集まった多くの「トライバル・ミリシア」たちはスーダン政府軍と密接に連携をとり「政府ミリシア(Government-Militia)」としてSPLA主流派と戦い、反政府ゲリラ活動全体を分裂させた。ヌエルのミリシアたちはたびたびディンカの村を襲撃、牛を強奪、村に火を放ち、多くの村人を殺した。

南スーダンの戦いは、家畜や水、牧草をめぐるアフリカ系民族同士の戦い、スーダン政府軍とSPLAの戦い、さらにスーダン政府軍に加わったSSIA、ヌエルのミリシアとSPLAの戦いといった風に複雑化した。
さらにそこにもう一つスーダン政府軍と連携した「アラブ系ミリシア(イスラム教徒)」が登場、戦列に加わり一層スーダン内戦の理解を難しくした。かれらは、アフリカ系でありながら政府軍と連携したヌエルのミリシアとともに強力な「アラブ系、政府ミリシア(Government-Militia)」であり、政府軍の尖兵となってディンカ、ヌエルなどアフリカ系民族(非イスラム、キリスト教徒)を襲撃した。80年代半ばから90年代を通じて石油地帯における焦土作戦の主役はかれらアラブ系ミリシアたちだ。かなり複雑だがある程度こうした背景を知らないと、「石油と内戦」、さらに現在のダルフール紛争もまた見えてこない。
1985年に入るとSPLAの反政府攻撃はさらに活発化しハルツームのアラブ人たちを脅かし始めた。

【バカラ/BAQQARA】

チャドからスーダンのコルドファン(南スーダンと接している)にかけてバカラと呼ばれるアラブ系(簡単に言うとハルツームのアラブ人支配者がアフリカ人と対立させるために作り出した非アフリカ系の人たち。イスラム教徒)牧畜民たちが広く居住している。バカラとは牛の人≠ニいう意味だ。その中でもスーダン内戦、焦土作戦の主役となって南スーダンに攻め込んでくる強力なバカラには二つの強力な集団があった。南スーダンと接する南コルドファンのミシリヤ・バカラと南ダルフールのリゼイカト・バカラだ。かれら「アラブ系ミリシア」はムラヒリーン(murahileen/旅人)と呼ばれ、南スーダン内にいる「アフリカ系トライバル・ミリシア」とは異なる。スーダン政府軍と連携した一部のヌエルのトライバル・ミリシア同様、かれらもまた政府系ミリシアである。

現在ダルフールで悪名高いアラブ系政府ミリシア、ジャンジャウィード(janjaweed)は90年代末鳴りを潜めたムラヒリーンが2003年、他のアラブ系政府ミリシアたちとともに中部ダルフールで復活したものだ。ムラヒリーン、ジャンジャウィード共にたくみに、馬、ラクダを乗りこなし村々を襲う。

コルドファン、ダルフールのアラブ系牧畜民のバカラと、国境を接する南スーダンのバハル・エルガザル、アパー・ナイルのディンカ、ヌエルといった牧畜民は、乾期のとくに旱魃の厳しい時期、水と牧草を求めて肥沃な南に越境してくるバカラたちと激しく争ってきた。武装したホースマン(馬上の人)たちは南部アフリカ系住民たちの村々を襲撃する。多くが殺され、村々は荒廃し、飢餓が襲う。石油の有無に関わらずバカラたちは容赦なく焦土作戦(Scorched-Earth)を展開する。そうしたローカルな戦い、資源争いに北部アラブ政権対南部SPLAの戦い=内戦の激化が重なってきたとき、そこは地獄と化す。内戦と飢餓と旱魃が複合的に重なった緊急状況をコンプレックス・エマジェンシーと呼ぶことは以前に話した。

80年代半ば、SPLAの攻勢が強まり、守勢に立たされたスーダン政府はこうした状況----〈バカラ対ディンカ、ヌエル〉、〈ディンカ対ヌエル〉、さらに〈SPLAの内部抗争〉を戦略的に利用した。そうして作られたのが「ミリシア戦略」だ。徴兵制度の法律化が難しく、大量の政府軍兵士を集められなかった北部政府は、1986年、サディク・マーディが首相の時、トライバル・ミリシア(アラブ、アフリカ系)を政府のミリシア(government-militia)として対SPLAとの戦いに投入することを決定、以来ミリシア戦略が強力に推し進められた。それまで以上に近代的、大量の武器をミリシアに与え、ディンカ、ヌエルが住む南部石油地帯に放った。その主役を担ったのがバカラたちアラブ系ミリシアたちだ。

【ドラム缶爆弾】

スーダン政府軍はロシア製アントノフ輸送機に大量のドラム缶爆弾を積み、南部石油地帯の地上の村々をめがけて突き落とす。家々が燃え、吹き飛び、村々がパニックに陥ったとき、地上で待ち構えていたミリシア部隊が突撃、村々を襲う。家畜、家財、さらに人間までもが戦利品(奴隷)として略奪されてゆく。村は消え、村人たちは追われる。そして石油会社がやって来る。これが典型的焦土作戦だと人権団体、あるいは村人たちは証言する。(2002年、ヌバ山地を訪れた筆者はドラム缶爆弾が炸裂した後地上に開いた穴、そしてドラム缶の中から爆発と同時に猛烈な勢いで周囲に飛び散って村人を殺傷した無数の鉄片を見せてもらった。それは原始的クラスター爆弾といっていい。校庭には爆弾によってできた大きな穴が開き、学校は閉鎖されていた)。

ある欧米のNGOは大量の武器が溢れ、無法地帯と化した南部の村からは家畜も人も消えた≠ニ報告した。そうした状況の中で戦いは続けられ大量の人間が被災民(displaced)となり広大な南スーダンを流浪、あるいは難民(refugee)となって近隣諸国に逃げ延びた。ケニヤ、エチオピア、ウガンダなど、国境を越えた難民の数は100万を越えた。こうした戦いの過程で村々の畑は荒廃し、さらに政府軍、ミリシア、またゲリラたちの戦略的都合によって意図的に人道的救援活動(食料、医療)は中断され、時に100万を越す人間たちが飢餓に苦しみ、命を落とした。

「内戦と飢餓」「石油と内戦」は複雑に絡み合ったスーダンの戦いの大きな象徴だ。前回触れた『ハゲワシと少女』はそうした戦いの象徴的一コマだった。
80年代半ばから2005年、南北の間で包括的平和条約(CPA)が結ばれるまでの約20年間、時期によって攻撃の大小、強弱はあるもののアラブ系政府ミリシア、そして政府系トライバル・ミリシアたちによる南部アフリカ系住民、そして石油地帯(oil-field)に対する攻撃----焦土作戦は続けられた。今でも、内戦再開の可能性、石油採掘活動のプレッシャーの中、人々は不安の中で日々を送っている。

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