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クライング・サウス 〜 Crying South 第2回

【石油と内戦】

オレとスーダンとの付き合いは長いかも。80年代にはナイル川を中心にハルツームと南部を含め数回、92年にはナイロビでSPLAの幹部にインタビュー、その後93年から南北内戦、飢餓の現地取材で十数回南部スーダンに行った。東コンゴとともにそこは個人的に最高のアフリカといっていい。今回のは2008年6月〜7月の取材報告だ。

スーダンに限らず、「内戦と石油」、あるいは現在のコンゴの戦いの原因である「紛争と資源」の今を十分に描ければ一流のジャーナリストといっていい。しかしそれは簡単ではない。そこは今の日本、日本人には中々切り込めないフィールドだ。そこは単なる戦場≠ナはない。
ここでは今回の話のバックボーンとしてざっと描いてみる。

普通スーダン内戦といえば現在のダルフール紛争ではなく、1983年に始まり、2005年1月に平和条約(CPA)が結ばれた南北内戦のことだ。ダルフールでもそうだが何故、何のために戦っているのかという説明は容易ではない。

一般的には北部、アラブ・イスラム政権(スーダン政府軍、ミリシア)対南部、アフリカ系キリスト教徒(スーダン人民解放軍/SPLA)の戦いであり、戦うワケ(理由)は北部による南部の搾取、差別、貧困と低開発の放置、さらにイスラム法の強制などから、全ての南スーダン人の自由と権利を回復することだと説明される。そこにさらに二つの戦いの政治的ゴールが交錯し理解を難しくさせる。一つは南北スーダンの統一、もう一つは南部の北部からの分離独立だ。それは人間の自由と権利の回復をどの様な形、枠組みで実現するのかの違いといってもいい。統一を主張するグループと、分離独立を目指すグループの対立は部族間の主導権争いも絡み次第に先鋭化し、91年、反政府ゲリラ闘争はSPLA主流派(ディンカ族)とナシール分派(ヌエル族/SPLA-UNITED/SSIA)という二派に分裂した。南部にはそれ以外にも多くのゲリラ、ミリシアグループがある。

そうした南北間、南部同士の戦いをさらに難しくさせたのが70年代半ば、南部で発見された石油だ。開発が本格化する90年代以降は、石油資源とその利権をめぐる争いは南北間だけでなく、ディンカ族対ヌエル族といった南部のスーダン人同士による石油利権の争奪となってより激しさを増した。2005年のCPA(包括的平和条約)で石油収入は南北50%づつ平等に分けられることが規定され、南部政府(GOSS)にも石油収入は流れ始めたが、開発、操業、投資などどれをとっても北部による実質的石油支配は変わってない。

平和条約を結んだ現在、統一か分離独立かの答えは出ていない、それは2011年の南部の住民投票によって決まる。石油支配と統一・分離独立問題、民族間の主導権争いは複雑に絡んでいて、結果如何、とくに南部が独立を選択した場合、石油収入を失う北部との内戦再開の確立はきわめて高いといわれている。
22年間に及ぶ戦いで約200万人が死に450万人が難民、あるいは被災民となって家を追われた。

【ハゲワシと少女】

スーダン内戦の一つの象徴はゲリラ、政府軍双方によって意図的に引き起こされた「飢餓」だ。ゲリラ攻撃による救援物資のストップ、意図的退蔵、各派閥間における戦闘による農地の荒廃、家畜の略奪等々によって、とくに南スーダンでは飢餓が繰り返された。こうした戦争、紛争と飢餓をはじめとした緊急の人間的危機が複合的起ることをComplex-Emergency≠ニいう。94年3月、南アのジャーナリスト、ケビン・カーターによって撮られた一枚の写真『ハゲワシと少女』がピュリッツアー賞を取り、世界的話題になった。だが、ニューヨークタイムスにその写真が載った途端、世界中から「写真を撮ってる暇があったら何故助けないのか」という抗議が殺到、ケビンはその直ぐ後に自殺してしまった。南アのアパルトヘイトの戦いの最前線で写真を撮り続け、自らをfailed man(失敗人間)≠ニ観ていたケビンはそうした抗議に対して十分にナイーブであり繊細だった。

半年後の93年10月、その同じ村---アヨドに2度ほどオレも足を運んだ。飢餓によって依然子供たちはスケルトン(骸骨)状態だった。直ぐ近くでは早朝から数千のゲリラ、ミリシアたちが軍事訓練に汗を流していた。ケビンの名誉のためにも一言言うと、少女は死ぬわけはなかった。何故なら、ケビンの近くにはSPLAのオフィサー、あるいは複数の監視役の兵士、村人などが必ずついているからだ。少女はハゲワシに襲われる状況にはない。当時の緊迫した状況の中で外国人が一人でふらふら動き回ることはありえない。だがシークエンス(sequence/連続)を追わない一枚の写真≠ヘ、それ以外について何も説明してくれない。すべて見る者の印象、判断に委ねられる。

【ジェネシス/はじまり】

1959年のスーダン独立前後から南部のアフリカ系住民たちは北部のアラブ人たちに深い不信感を抱いていた。南部のアフリカ人たちは長い間、アラブ人たちの奴隷狩りによって追われ、迫害と略奪にあってきたからだ。急進的南部アフリカ人たちは自分たちの真の独立を求め、アニャニャ(毒蛇)という名のゲリラグループを組織、ブッシュに潜り反政府闘争を続けた。10年余り経った1972年、アジスアババ平和条約が結ばれ、停戦は確保され南北の一時的平和≠ヘ続いた。しかし条約に不満を持っていた多くの人間たちはさらにゲリラ活動を継続した。いくつかのグループが生まれ、やがてそれはアニャニャ-2として再結集し反政府活動を強めた。その間、69年にクーデターで政権を奪取、大統領になったヌメイリの失政、経済的不況などで、南部自治政府に対する経済発展、開発のための投資はほとんど実行されなかった。南部は貧困と低開発に苦しみ、多くの南部人たちは失望していった。さらに83年、ヌメイリによるイスラム法の南部への強制や、南部自治政府を3つの地域に分割する南部の弱体化など、南部の北部、アラブ人に対する不信と不満は頂点に達した。85年にヌメイリは失脚。

83年5月、南部、ボルに駐屯していた政府軍部隊が反乱を起こし、それ以前から反北部、反アラブ・ゲリラ活動を行っていたアニャニャ-2などと合流、隣国エチオピアなどの支援を受けスーダン人民解放軍(SPLA)を結成、本格的反政府ゲリラ活動を開始。激しい内部抗争の末、ボルの反乱の指揮を取ったジョン・ガラン大佐(ディンカ族)がリーダーとなった。それは長い戦い----スーダン内戦の始まりであった。

将来の食料確保を目指すアラブ諸国はスーダンをその食料庫≠ニ考え、北部、ハルツーム政府とともに大規模な農業開発を計画、大量の灌漑用水を取るため、80年、南部でジョングレイ運河≠フ掘削工事を開始した。運河はサッド(ナイルの大湿地帯)を蛇行する間に大量に蒸発してしまうナイルの水を、湿地帯を通らず真っ直ぐに下流のナイル本流に結びつける壮大なものだった。しかし全長360キロの260キロまで掘り進んだ1984年、内戦が激化、工事は中断された。現在工事再開の動きもある。
しかしそうした政治的、宗教的要因、経済的要因以上に南北関係と内戦の争点となったのが南スーダンの「石油」だ。北部に有望な油田はない、それがまた問題をこじらせている。

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