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黒い鎮魂/ブラック・レクイエム 第26回

【インテラハムウェ】

最も、過激に反応したのは、AKAZUを中心としたフツ族の対ツチ族強硬派たちだ。大統領自身とも関係は深いが、しかし大統領が、外国からの圧力や、国内政治の舵取り等々で妥協的立場をとらざるを得ないのに比べ、かれらAKAZUの取り巻きたちは、ツチに対する一切の妥協を排除した。そして対ツチ闘争に際して彼らハード・コアたちが最も期待を掛けたのが、アフリカ史上最強の殺人マシーン、フツ族過激派――インテラハムウェだ。

インテラハムウェは、さまざまな理由でルワンダ政治、フツ族独裁が揺らぎ始めた90年代初め、危機感を抱いたMRNDの幹部たちが、対ツチ戦闘用に作った戦闘ミリシア集団だ。AKAZU、さらに軍を中心にAMASASU(”弾丸”という意味のルワンダ語)、ZERO-NETWORK(あるいはDEATH-SQUAD)など対ツチ殺戮組織が作られていった。91年にはMRNDは自らさらに過激なフツ族至上主義政党CDR(★)を結成、対ツチ包囲網を狭めていった。メディアもまたこうした動きに乗っていった。RTLM(★)、KANGURA(★)は猛烈にツチ攻撃を繰り返した。

インテラハームウェとは”共に起ちあがろう”という意味のルワンダ語だ、中核はプロフェッショナル・インテラハームウェと呼ばれる1700人だ。トップはロバート・カジュガ、かれは自らをインテラハームウェの大統領と名乗っていた。

メンバーは国内各地から集められた。失業者、犯罪者、さらに不安定な国内情勢のため家を追われた人間たちが身を寄せる被災民キャンプもまた募集の格好の場所だった、ブルンディ、ザイールからきたフツ族難民もまた募集のターゲットとされた。最終的には5万を越す大部隊となったインテラハームウェは、目的(最終決着/final-solution)遂行のためそれぞれ各地区、村々へと散っていった。反ツチ、フツ族賛美の集会は熱気に溢れたものだったという。徹底的にツチを侮辱、殺戮を扇動し、フツ族自らを賞賛した後、夜の焚き火の周りでは酒が振舞われ、次々にボトルが空になって行ったという。それを悪魔というべきか、地獄絵というべきか。この時、恐らく誰一人として自分たちがやろうとしていること、また向うべき地点について明確に分かっていたものはいなかったにちがいない。

【暗雲】

権力内部の争いに現を抜かしている時、北の方では巨大な黒雲が急速に成長していた。

1959年以降、フツ族に家を追われたツチ族の多くは隣のウガンダで難民生活を送っていた、彼らの祖国への帰還の願望は日を追って強くなるばかりだった。80年代に入ると若くて有能な者たちの多くは、彼らに支援の手を差しのべてくれた反政府ゲリラ、リーダー、カグタ・ムセベニが指揮するNRA(国民抵抗軍)に参加、反政府ゲリラ活動を通じて実績を積み、次第に頭角を現していった。ムセベニが政権を奪取し、大統領になった後も高級将校としてウガンダ軍(UPDF)の枢要な地位を占める者も少なくなかった。その中でも特に傑出した二人がいた。フレッド・ルイゲマとポール・カガメだ。ルイゲマはその軍歴、ルワンダのツチとしてNRAの最高司令官の地位に上り詰めたという成功、さらに兵士から慕われる人間性も相まって亡命ルワンダ人の間ではカリスマとして尊敬を集めていた。一方、後にルワンダ大統領の地位にまで上り詰めた男、カガメもまたその能力においてひけをとらなかった。軍事的才能を買われたカガメは、アメリカの軍学校に送られ研鑽を積んでいた。

そうした成功と実績、ウガンダ軍の中におけるよそ者としての限界、さらに、国連をはじめとした国際社会の仲介によるツチ族難民帰還プログラムの進展、実現がいよいよ目前に迫るにつれ、軍事的解決(ハビヤリマナ政権の打倒)を最優先にしていた彼らに残された時間はほとんどなかった。それは焦りと言ってもよかった。1986年、ムセベニがクーデターによって前政権を追放、大統領に就任した翌年の87年、在ウガンダ、ルワンダ難民たちはハビヤリマナ体制打倒を目指してRPF(ルワンダ愛国戦線)を旗揚げした。それからわずか3年後の1990年10月、ルイゲマの指揮の下約2500人のツチ族兵士からなるRPF軍は、ルワンダに侵攻した。結果は惨敗だった。

ルイゲマは戦死、小規模とはいえフランス製の優秀な装備に固められたルワンダ政府軍の強力な反撃に会い、多くの兵士が死に、また逃れた者も山野を彷徨い、飢えや病気で亡くなった。だが、双方(フツ族権力/ツチ族反政府ゲリラ)にとって結果はどうであれ、これが本格的殺戮、暴力の循環の開始へと向う第一歩であったことは間違いない。94年4月に向けて、ルワンダの、いやアフリカの血に塗られた激動の時が動き始めたのだ。

即座に、インテラハムウェをはじめとしたフツ族過激派は反応した。ルワンダ内のツチ族に対する報復殺戮が始まった。主なものだけでも90年10月、91年1月、2月、3月、8月、93年1月、3月、94年2月・・・・、ツチ族を襲ったのは過激派だけではない、軍隊、政党、そして一般住民に至るまで多くの者たちが殺しに参加した、”ゴキブリ(ツチ族に対する蔑称)”を殺せ、ラジオ、新聞、あらゆるフツ族のメディアは絶え間無く殺戮を煽った、大衆紙カングラは次のように書いた「コクローチはバタフライを生むことはできない、コクローチは次のコクローチを生む。1960年のコクローチも、1990年1月に攻撃をしてきたコクローチも同じだ」(Leave none to tell the story)。扇動された全てのフツ族がツチ族を襲った。だがフツ族の悪魔たちは苛立ち、気付いていた、こんな殺しのペースではまだまだ不十分だと、このままでは何時までたっても全てのツチ族を殺し尽くすことはできないと。

90年代に入ったルワンダには、フツ族によるツチ族への殺戮の嵐が吹き荒れた。誰もそれを止めようとするものはいなかった。ルワンダには”免責文化”が支配していると論評するのが精一杯だった。こうしたフツ族によるツチ族への攻撃、殺戮は大統領搭乗機が撃墜され、虐殺が開始された94年4月まで続いた。この間すでに10万を越すツチ族、あるいはツチに同調的フツ族(彼らのことはツチ族とともに”ibtyiso/同調者”と呼ばれ、フツ族過激派による殺しの第一ターゲットとされた)が殺された。

この3年半の出来事は、未だ断定はできないが、「1994年4月6日夜の大統領機撃墜、虐殺開始という策謀の中で、綿密に練られたステップであったと考えられる」(THE MEDIA AND THE RWANDA GENOCIDE)としている。

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