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黒い鎮魂/ブラック・レクイエム 第24回

◆ジュベナル・ハビヤリマナ/ルワンダ
【プレリュード】

鎖の先端にはパトリス・ルムンバが繋がれた。

コンゴとルムンバについて多くを割きすぎたかもしれない、だがコンゴの闇を見ない限り、鎖に繋がれた6人の姿もまた見えてこない。ルムンバの直ぐ後ろに繋がれているのはルワンダ大統領、ジュベナル・ハビヤリマナだ。ハビヤリマナは何故、ルムンバの後ろに繋がれたのか、二人の間、そこには時間にして30年以上の隔たりがある。ルムンバ、1961年暗殺、ハビヤリマナ、1994年撃墜暗殺、その30余年こそ、クーデタによって権力を奪取し、その後アメリカの異常なまでの庇護によって権力の座に座り続けたモブツの時間だ。本来なら、当然ルムンバの後にはアメリカの手によってお払い箱(1997年追放、病死)になったモブツが繋がれるべきであった、が、それより3年前の1994年、ハビヤリマナが撃墜暗殺されたため、ルムンバの後になったというわけだ。ならば、ルムンバの暗殺とハビヤリマナの暗殺の間にはどのような関係があるのか、それについて答えない限り、”一本の鎖に繋がれた6人”は意味を持たない。もう一つ見過ごせない重要な点がある。ハビヤリマナ以外の男たちの国、土地には石油からダイアモンドに至るまでそれぞれ膨大な地下資源が眠っている。だが、ハビヤリマナのルワンダにはそれはほとんどない、ならば何故、ハビヤリマナは殺され、同じ鎖に繋がれたのか?実はこの点に、隠された大きなトリックが存在するのだ。簡単には見えない大きな仕掛け、あるいはシナリオといってもいい。

コンゴのように通史も含めて順に追っていったら直ぐにページは終わってしまう、ここでは、簡単に歴史に触れた後、ルワンダ事件(「ルワンダ虐殺」と「難民脱出、難民キャンプ」から成る)のいくつかのポイントを挙げ、ハビヤリマナ暗殺の背景と、ルムンバ暗殺の関係を追ってみる。

【カインとアベル】

14世紀、はるかエチオピア高原の彼方から一群の牛飼いたちが多くの牛を引き連れて、サバンナが尽きるところ、コンゴ熱帯林に行く手を遮られた無数の丘が支配する土地に腰を落ち着けた。貴族制を中心に、戦うためのシステムを身につけた彼らはWatsuti(ワツチ/ワは複数を表すバンツー語特有の接頭語)と呼ばれた。無数の丘には、しかしすでに数では圧倒的優位を誇る別の集団がいて、狭い畑を耕していた。彼らはワフツ(Wahutu)と呼ばれた。その他にほんの少数であるが、ワツワ(Watwa)と呼ばれる小柄な人間たちが狩猟を中心に暮らしていた。これが現在ルワンダと呼ばれる土地におけるツチとフツの出会いであろう。ツチは次第にフツを従えていった。

それから200年以上にわたってカイン(フツ=農耕民)とアベル(ツチ=牧畜民)は、ツチの王を頂点とした貴族制の下で、支配者(ツチ)、被支配者(フツ)という関係ながらも周囲の敵からの攻撃にも耐えどうにか共存してきた、それは狭い土地で共存以外、それぞれのサバイバルの道はなかったからだ。

19世紀半ば、そうした微妙なバランスを壊す事件が起きた。それは、ルワンダに限らず多くのアフリカにとって不吉な予兆だった。スタンレーとナイルの水源発見を争ったもう一人の男、イギリス人探検家、ジョン・ハニング・スピークがルワンダに現れたのだ。それが後の白人支配、植民地主義支配の幕開けになろうとは誰一人として予測だにできなかった。その悲劇的結果について「◆コンゴ」のところで散々見てきた。東アフリカ(タンザニア)を得た勢いで、やがてドイツが保護領としてルワンダを支配、本格的にドイツを植えつける間もなく、第一次大戦に負けたドイツはその土地を、1919年、国際連盟からの委任という形ではあるが、ベルギーに譲った。第二次大戦が終わった後、今度は国連(国際連合)からの信託統治という形でベルギーが引き続き統治を続けた。

支配者であり、貴族であるツチに対するフツ族の従属、貢納(労働、生産物等)という形で保たれてきたルワンダ国内の安定は、しかし二つの大戦を通じて大きく揺さぶられ、また変化を引き起こした。同時にベルギーの統治も次第に苛酷に、巧妙に、二つの部族の関係を分断、敵対させることによって推し進められた。ベルギーの思惑通り分断統治(divide &rule)が確立された。次第に政治的、文化的ツチ・フツが明確に形作られていった。支配者(ベルギー)は自分の都合で、ツチ、フツをスイッチング(乗換え)することによって巧みに支配を続けた。

さらに世界の動きは、新たな衝撃=価値観を対立の只中に持ち込んだ。”民主主義”と”植民地解放”だ。支配者ベルギーもまた巧みに都合よくそうした価値観をルワンダ政治に持ち込んだ。王制、貴族制度の下で優位を保ってきたツチは衝撃を受けた。それまで自分たちにさまざまな特権を与えてきた支配者、ベルギーがここに来て突然手のひらを返したのだ。

数において圧倒的に劣るツチは危機感を募らせた。1959年、フツに妥協したとして王(ツチ族)、ルダヒグワはツチの手のよって暗殺された(この”妥協”という言葉は殺戮のルワンダ政治にとって重要なキイワードだ)、すでに支配者(ベルギー)はフツの側にあった。勢いづいたフツは、59年11月、ルダヒグワを継いだキゲリ王を追放、王は隣のウガンダへ亡命した。この時、王制を打倒したフツの行動は”フツ革命”ともいわれている。

この時、報復的に数年間で2万から10万のツチ族が殺されたといわれ、約15万人のツチ族がウガンダなどの隣国へ逃げた。この時の難民の中に、後のRPF(ルワンダ愛国戦線)のリーダー、ポール・カガメがいた。完全に政治権力はツチからフツへと移った。ツチ貴族体制を支えていたカソリック教会もまた、徐々に中流、下層クラスからやって来たフツの司祭たちによって支配されていった。周囲の政治的、文化的変化を読んだ植民地支配者ベルギーは完全に変身した、ツチからフツへと。

「われわれはどちらに立つか決めなければならない。受身であったり、中立であることは許されない」(ザ・ルワンダ・クライシス/プルニエ)。だが、コンゴでは明確だったベルギーの利益(=カタンガをはじめとした地下資源、鉱山関連から生まれる)は、ここルワンダの場合は一体なんだったのか、ベルギーはルワンダに何を見出していたのか・・・。

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