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黒い鎮魂/ブラック・レクイエム 第22回

【状況】

国連、米ソ対立、ベルギー駐留、国連内アフリカ・グループ対立、レオポルドビル(モブツ体制)、カタンガ(チョンベ)、スタンレービル(ルムンバ派)、ルムンバ、ハマーショルド・・・、それぞれのグループの利害が絡み合いながら、時間は失われようとしていた。

ルムンバは公邸の周囲をルムンバの逮捕を防ぐために派遣された国連兵に守られながら過ごしていた、さらに国連兵を囲むようにモブツのコンゴ兵がルムンバの逮捕と、逃亡を防ぐために展開していた。国連ではルムンバ派とカサブブのどちらに代表権を与えるのかについて激論が戦わされていた。この決定はその後のコンゴ情勢の行方を決定付ける。世間のルムンバ人気、そのカリスマ性はほとんど衰えていなかった。モブツとベルギー、そして誰よりもアメリカはルムンバの存在に敏感だった。あたかも国連を中心とした国際社会が今にもルムンバの復権を実現させるのではないか、とアメリカは危惧した。

国連の場では代表権の問題も絡み、とくにアフリカ加盟国間内でルムンバ支持派(ソビエト寄り、反アメリカ、西側)とカサブブ支持派(アメリカ、西側支持派、その後さらに旧フランス植民地を中心とした国によって第3の"カサブランカ・グループ"ができた)が厳しい対立を繰り返していた。

国連コンゴ特別代表に就いたダヤル(インド人)は、モブツの権力保持を否定し、ベルギーの存在を非難しながらも、ルムンバの復帰に対しても思い切った行動を取らなかった。ギニアのセク・トーレ(大統領)がルムンバに代表権を与えるべきだと主張、暴走したことが、一挙に反ルムンバ、カサブブ支持派の危機感を煽り、一時棚上げにされていた代表権問題は、11月の後半にカサブブ代表部が国連代表の席に着くことが承認された(賛成53、反対24、棄権19)。代表権決定の延期提案は葬り去られた。カサブブ、すなわちモブツが代表権を持つことによって、ルムンバ包囲網は一気に縮められた。背後にアメリカの並々ならぬルムンバ追放の動き、キャンペーンがあった。

コンゴ内のルムンバ派は焦った。すでに本拠地を東部のスタンレービル(現キサンガニ)に移そうとする計画は以前からあったが、ルムンバが軟禁状態の今、急がなければなかった。国際的錦の御旗を得たカサブブ、モブツ派がいつルムンバ逮捕に踏み切るかもしれなかった。

この時、コンゴは3つの勢力によって分割支配されていた。(1)カサブブ、モブツによるレオポルドビル、国際社会によって一応の正当性を認められているものの、その中身に関しては問題を残し、磐石とはいえなかった。何時またルムンバ派の巻き返し、反抗があるのかに脅えつつ、アメリカ、国連の支持に頼るしかなかった。

(2)エリザベートビル(現ルムンバシ)体制、チョンベの支配するカタンガだ。カタンガはその鉱物資源から生まれる財力、さらにベルギーからの直接的援助によって、経済的にも順調でそれなりの安定を見せていた。特筆すべきは数百人を越すベルギー軍人、関係者などが中心となって作られたカタンガ憲兵隊の存在だ。60年12月には、その数は7千人近くに膨み、装備、兵器も充実していたという。エリザベートビルははっきりとアメリカ、イギリス、フランス、そしてベルギーといった勢力に支持されていた。

(3)スタンレービル体制、9月のモブツのクーデタ以後、危機感を募らせたルムンバ支持派は続々とコンゴ東部、中央からは・・・キロ離れたレオポルドビル(現キサンガニ)に続々と集結した。主な人物だけでも、アントワヌ・ギゼンガ(元副首相)、ビクトル・ルンドラ(元最高司令官)、クリストフ・グベニエ、ピエル・ムレレ、その他多くの政治家たちがスタンレービル目指して急いでいた。ルムンバの逮捕後ではあるが、12月12日、スタンレービルがコンゴの首都であるという宣言を行った。ルンドラによる軍隊の整備、再編も行われ、5千人規模の軍隊ができた。かれらはカタンガ北部への戦略的進出も考えていた。経済的にはオリエンテ、キブ州などの農産物生産、ソビエト、アラブ連合(エジプト)などの支援によるところが多かった。

【脱出/逮捕】

11月27日雨の降る夜、警備が緩んだ隙をついて脱出は実行された。ルムンバの他にも、オキト、カシャムラ、グベニエ、ムポロなどの側近たちもまた脱出した。発見は遅れ、翌日の午後になるまで警備関係者は分からなかったという。使った車は普通のセダンで、シボレーとも、フォードだともいわれている。「コンゴは殉教者を必要としている」(THE STATE…)、それなりの覚悟を定めた脱出であったようだ。直ぐにルムンバ捕捉、逮捕のための捜索行動が起こされた。キンシャサからキサンガニまで2500キロ近い、しかも悪路だ、気の遠くなるような距離だ。燃料補給などはどうしたのか、さらにルムンバは途中の村で演説をぶったともいわれている。時間は失われていった。このことが逮捕の大きな要因の一つだといわれている。

「ムンガイでもプクルでも、熱狂的な多くの村人が話を聞きに集まってきた、しかしこれがルムンバの貴重な時間を奪った」(パトリス・ルムンバ)。モブツはただ同じ道を車で追跡するだけでなく上空から発見のため飛行機も投入した。ルムンバ拘束の責任者には、長年の宿敵であり、最もルムンバを憎んでいるといわれていたビクトル・ネンダカ、秘密警察長官が選ばれた。上空からの発見のためヘリコプターと小型機も投入された。

11月30日、カサイ州の道路を走る数台の車が発見された。地上軍に司令が発せられ、現場に急行、翌12月1日ルムンバはカサイ州サンクル川の近くで捕捉、逮捕された。カサイには国連ガーナ部隊がいた。ルムンバの逮捕の報を受けると、現地指揮官はルムンバの身柄の確保し国連の保護下に置くよう要求、しかし、これは受け入れられず、ルムンバは飛行機でレオポルドビルへ送られた。ここにルムンバの、いやコンゴの命運は尽きようとしていた。逮捕時、すでに手荒い暴行を受けていたルムンバは、レオポルドビルでもさらに顔に唾を吐かれモブツによって辱められた。

ルムンバはレオポルドビルの南西にあるティスビルにあるエリート大隊が駐屯する軍の監獄に送られた。ニューヨーク(国連)とスタンレービルに衝撃が走った。スタンレービルでは直ちに反モブツ、東部州の分離独立への動きが加速された。軍の反乱、ベルギー撤退、カタンガ問題、代表権問題に次いで、国連はさらに難題に直面した。釈放か否か、国連は何をなすべきかについて再び議論が沸騰、激しい対立が巻き起こった。だが、代表権をカサブブ、モブツ派に認めてしまった国連――ハマーショルドは結局、ルムンバ釈放へは動かなかった。ただ人権的配慮を要請するにとどまった。その決定の背後にアメリカ、イギリス、ベルギーといった国々がいたことは明白だ。

ギニア、マリといった国連加盟アフリカ諸国の第一グループに属する国々はあくまでもルムンバの釈放を要求、要求が入れられない場合は国連からの引き揚げも辞さないといった強硬な態度に出た。東西対立という枠組みがあったとはいえ、それにしても当時のアフリカには政治が存在した。ポスト冷戦、(アメリカに)たて突く政治は消えた。(イスラムが挑戦を試みたが、そこには"テロ"という小規模で散発的手段しか残されていなかった)。言葉を変えて言えばそこに、アフリカに自由と独立という"希望"があったということか。

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