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黒い鎮魂/ブラック・レクイエム 第18回

【介入】

カタンガでは、軍(コンゴ兵対ベルギー将校)の問題に、さらに以前からあった分離独立の問題が複雑に絡み、オーバーラップしてきた。しかもカタンガにはコンゴ軍に属するベルギー軍人とは違って、完全なベルギー駐屯軍がいた。カミナ基地に駐屯するベルギー軍の対応はその後の展開の大きな鍵を握っていた。7月9日、張り詰めた不穏な空気が破れ、緊張がプツリと切れたかのように、反乱は起きた。分離独立要求という爆弾を抱えたカタンガの反乱は単なる暴動鎮圧では収まらなかった。一歩対応を誤ればコンゴ人同士の戦争にまで発展する爆発力をそれは秘めていた。さらにその機会を狙って外国勢力もまた虎視眈々と状況の推移を窺っていた。

ポスト冷戦、90年代のソマリア、ルワンダの例を見るまでもなく、アフリカには国際政治の理論を越えた軍事的決断、行動を求められた例が少なくない、人道のために軍事力を行使したソマリア介入、虐殺ストップ、阻止のために、逆に介入をしなかったルワンダ(そのため殺された人間の数は80万人へと膨れ上がった)、いずれも“介入(intervention)”というキイワードを軸に国連によって認可された国際社会の決断、行動であった。当然そこには多くの国際的アジェンダ、現在の国際問題の最前線の課題が提起されている。

独立直後、わずか1週間余、1960年7月のコンゴの場合もまた、多くの国際的課題が提起され、突きつけられた。はたして今それらは、紛争対応、処理の課題として十分に論議されているだろうか、もちろん答えはNOである。この時もまた介入が現実課題として突きつけられた。介入には二つあった。一つはベルギー単独による反乱(暴動)鎮圧、ベルギー人救出(自国民保護)である、当然介入を巡って議論があった。はたして介入の正式な要請なくして独立国家への介入が可能なのかという点だ。“国際法”を援用して自国民保護のために介入は可能だと解釈するものもいたが、しかし国際法の曖昧さからいってこれには無理がある。

もう一つはコンゴ側の同意による介入だ。だが武力行使を伴う介入を独立国家がそう簡単に認めるわけがないし、誰と同意を結ぶかも重要な点だ、結局、最後は相手側の同意がなくても踏み込める、ベルギーによる一方的介入だ。名目は暴動鎮圧、自国民保護だ。この時点ではもう一つの介入主体となる国連はまだ巻き込まれていない、いわば単独決定だ。

事実、7月10日、カミナ基地の300人のベルギー部隊がエリザベートビルを占拠、さらに同日夕刻には落下傘部隊がルルアボルグに降下、多くのヨーロッパ人を解放。第一段階の介入の因を作った暴動は、いわば軍内部とベルギーの関係であった、例えばコンゴ人下級兵士の心情を理解しないジャンセン将軍の傲慢な態度、発言、或いは独立を得ながら裏切られた昇進、給料の増加など、より精神的、内面的部分が多かったとされている。はたして本当にそうなのかということは別として「彼らが要求していた地位の向上が認められた時、平静にかえった」(コンゴ独立史)という。

この時のコンゴ軍の暴動の背景には謎が多い、独立宣言からわずか数日にして軍、労働者を中心に暴動、ストライキが発生、多くの不満が存在していたとはいえ、何者かによる新体制への揺さぶり、挑戦と見てもおかしくない。以降、この時コンゴの歴史に生じた大きな歪みが一度たりとも修復されたことのない事実を見る時、パトリス・ルムンバによる独立宣言の茶番と暴動の関係もまた見えてくる。この時、ある原則が確立された、すなわち、何があってもコンゴに確固とした政府ができてはいけないのだという・・・。

【カタンガ問題】

いったん沈静化されると見られた情勢は、ここからさらに捻じれていった。介入したベルギー軍の侵略的“暴走――ベルギーは自国民保護”だけでなく、積極的に中央政府に属するコンゴ公安軍の武力による解体を強行していった――、そして決定的に事を紛糾させた7月11日のチョンベによるカタンガの独立宣言である。中央政府(ルムンバ)は共産主義者に乗っ取られていると非難し、ベルギーの顔色を伺いながらチョンベはカタンガの分離を宣言した。カサブブ、ルムンバの中央政府にとってベルギー、チョンベのカタンガ州政府は次第に敵対勢力として映り、自分たちだけでの問題解決の力に欠けていることを認めざるを得なかった。

ルムンバとカサブブはベルギーをコンゴに対する侵略者であると非難、「国連に援助を要請し、ギゼンガ、ボンボコがアメリカ大使に派兵を要請した」(コンゴ独立史)。ベルギーは侵略を否定、国連もまた表立ったベルギー批判は控えたが撤退は要求、対応の難しさが浮き彫りにされた。一方でベルギーの行動は大胆さを増し、少なくとも20ヶ所以上で介入、軍事行動を展開し、中央政府下のコンゴ軍と衝突した。7月13日には、国連はコンゴ問題、混乱収拾に関する最初の決議を提出、コンゴ問題に関してのイニシアティブを取ろうとした。

軍の暴動→鎮圧、自国民保護を名目としたベルギー軍介入→カタンガ独立宣言、こうした混乱がコンゴの独立直後に連続的に起きたということ自体異常である。こうした一連の混乱、異常な状況は、反植民地闘争に勝利し、新生コンゴの首班となり新たな国づくりに動き出した一人の男を次第に追い詰めていった。

カタンガ問題――正確にはコンゴ問題、あるいは危機というべきであろうが――とは何か、部族間、政党間の激しい権力闘争があったとはいえ、何故コンゴ軍(元公安軍)の暴動の直後、続けざまに侵略的」介入とカタンガの分離、独立要求が火を噴いたのか、もとよりカタンガは地政学的スキャンダル」と呼ばれるほど豊富な地下資源★★を擁していた。

【ラバー・テラー】のところでもすでに触れたように、非人間的暴力支配から一転して国家としての独立、その急流の中でしかしどう見ても“コンゴ”そのものがすんなりと落ち着くようには思えない、そこには権益を巡る複雑な関係、そして思惑が網の目の様に張り巡らされていた。純粋に、民族(部族)、分離、独立、和解といった政治を語るにはそこは余りにもスキャンダラスにきな臭かった。

カタンガ/コンゴは政治的存在を超えた以上の何かだった。それは今も全く変わらない。そうした政治的枠組みを超えた部分について“コンゴ”は示唆的だ。同書は明確に次のように書いている。「チョンベとムノンゴ(カタンガの内務相、権力者)は鉱山会社、白人入植者の利益を代表する強力なアフリカン・フロント」だったと。さらに問題の背後にある力学を知ることなくしてカタンガ問題の本質を語ることはできないとも述べている。

恐らくここにカタンガのみならず、コンゴ問題の本質があるように思う。前にも触れたように第一次世界大戦前からカタンガは南アをベースとするイギリス系鉱山企業(デビアス、アングロ・アメリカン、白人鉱山技術者等々)、産業資本のコンゴ開発前線基地として重要な地位を占めていた。同時にベルギー、フランスといったフランコフォン・アフリカ勢力と利権を争うアングロサクソン全体にとっての最前線という役割もまた担っていた。とくに第二次世界大戦以降、南アからやって来た多くの鉱山関係の白人技術者、入植者とベルギー支配層との間でカタンガの富を巡る主導権争いが展開された。

やがて両者はお互いの利益のため妥協し、ルムンバらの支配する過激な中央政府に対して自らの利益を代表するアフリカ人グループを探した。そうして選ばれたのがチョンベに代表されるグループであり、カタンガの分離、独立という選択肢だ。とくにカタンガを代表する政党CONAKATはそうした白人グループの利益に沿うものでもあった。しかし、コンゴの地下に眠る膨大な資源は何もカタンガだけではなかった、それ以外にもカサイ、南北キブにも喉から手が出るほどの膨大な資源がほとんど手付かずで眠っていた。これがコンゴに強力でしっかりとした政府ができては困る理由だ。

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