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黒い鎮魂/ブラック・レクイエム 第16回

【反ベルギー】

首都のレオポルドビルの表向きの発展とは別に、抑圧されていると感じていた人々の心の中には、同時に、具体的抵抗への芽が次第に膨らんで行った。軍隊の反乱に次いで行動を起こしたのは宗教的集団だった。1920年代のはじめ、神からの強い啓示を受けた一人の預言者、サイモン・キンバングが現れた。キンバングはコンゴ王国の復活、パンアフリカニズム思想(アフリカ人のためのアフリカの建設)の布教の中に、最終目的であるコンゴの欧米植民地主義支配からの解放と独立という行動を巧に混ぜ合わせ、多くの大衆からの熱烈な支持を受け、コンゴ独立への道を開いた。

このキンバングイズム、大衆宗教運動は当時の最先端のアフリカの自立、或いは民族主義の萌芽として高い関心と評価を得ており、語り尽くすのは容易ではない。事実、運動の国際的広がりも大きく、当時西アフリカ人たちが中心として作られた“Negro-World”や、奴隷労働者としてアメリカに連れて来られたアフリカ系アメリカ人たちのアフリカ回帰運動(back to Africa)の指導者として知られたマーカス・ガーベイの考え、行動とも繋がっていた。

抑圧に喘ぐコンゴの人々は、何時の日か、アメリカに連れ去られた同胞たちが、コンゴの解放と発展のために帰って来ると信じていた。白人たちによる抑圧と虐待が強ければ強いほど、彼らの思いもまた強く、それは無視できない大きな力となった。ただそうした宗教的王国、楽土建設(魂の解放)が実際の部族間の主導権争い、権益争奪の戦いの中でどのような役割を果たしたのか、それを知るのは容易ではない。サイモン・キンバング自身は反抗を扇動したとして30年近くに渡って拘留(終身刑)された。コンゴ独立前後キンバングの団体は合法化されたが、かつての革命的宗教団体は、モブツ時代は逆に独裁者モブツを支える保守的宗教組織に変身した。

そうした動きの中で、しかし、決定的に独立への動きを支え、推進したのは、一般労働者、公務員、商店主などといった都市や鉱山、農園で働く労働者階級、プチ・ブルジョアたちだった。アフリカ植民地から、できるだけ多くの富を持ち出そうとしたベルギー人たちの鉱山、鉄道、都市整備などへの投資のせいで、多くの組合も生まれ、組織化された。

コンゴ人労働者たちの政治的覚醒は目覚しく、当然独立への要求と熱気も高まっていた。様々な人権侵害的規則でコンゴ人を縛り付けていた、ベルギーであったが、そのことが逆に産業の発展と並行してコンゴ人たちの人間としての覚醒をもたらす結果となった。農民もまた「rubber-terror」のところで述べたような状況からはやや改善されたものの、今度は、ヨーロッパ人の経営するプランテーション、鉄道建設、鉱山などの安価な労働者として強制的に働かされる立場に追いやられた。支配者たちは新たな法律を張り巡らせることによって、コンゴ人たちの自由を奪っていた。

やがて1940年代に入ると、鉱山でも、農園でもさらに都市においてもコンゴ人たちの反ベルギー、独立への気運はさらに高まり、軍、労働者たちによるストライキ、反抗が頻繁に起きるようになった。最初の反乱は、1941年、カタンガのUMHK(ユニオン・ミニエール・カタンガ鉱山会社)で起った。ストライキでは数百人が殺された、続いて農民、農園労働者、鉱山労働者などが一体となったより計画的、組織的ストライキが頻発、さらに主要な都市の駐屯軍もまた続いた。

一部ブルジョア階級は、ベルギーの保護支配の下で自分たちの利益と生きる道を求めたが、しかし広範な大衆の反植民地、独立への戦いの渦に逆らうことはできなかった。ルムンバでさえも一時、白人支配者、白人文明の良き理解者として振舞おうとしていた時期があった。解放と反植民地闘争が一体となったコンゴの戦いは、1960年の独立へ向け、クライマックスを迎えようとしていた。

1956年には、エジプト、モロッコ、チュニジア、そしてスーダンとアフリカ諸国は次々と独立を勝ち得えていった。そうした中、結局コンゴ人自身の手によってしかアフリカの解放、そして独立はないと確信したパトリス・ルムンバが、大多数の大衆の心を掴み頭角を現し、白人支配者たちへの怒りと反撃を準備して行った。そして激情に突き動かされたルムンバをして―――

「もはやわれわれはあなた方の猿ではない」と言わしめた。ベルギー側のルムンバに対する不信感、不快感は言うまでもない。

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