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アフリカ・フロントラインから見えてきた日本
vol.1 (1)

私は40年近く日本とアフリカを行き来してきた。意外なことだがそこからは紛争などアフリカが抱える問題以上に今の日本が見えてきた。アフリカから日本を観る見方は多くはないと思うが、この場を借りて何が見えてきたのかを報告しようと思う。その前に簡単に私のバックグラウンドについてお話したいと思う。

私の仕事はアフリカ紛争をカバーするジャーナリスト、アフリカ関係のテレビ番組のコーディネーター、そしてアフリカのサファリツアーのガイドだ(普通は日本社会では存在しない仕事だ)。とくにアフリカ紛争問題の取材とレポート、情報収集と分析は私の仕事の中心といっていい。ほとんどアフリカに関心のない日本でこうしたことを続けていくのは相当難しいがとにかく40年近く続けてきた。フリーの立場として周囲の人たちの理解と支援でどうにかサバイバルしている。

はじめて私がアフリカ大陸の土を踏んだのは1970年のことだ。横浜から船で行った。途中、飛行機、汽車など乗り継ぎ、最後はボンベイ(現ムンバイ)から東アフリカに向けて航行する〈カンパラ丸〉という移民船のバンク(船底)クラスに乗り、セイシェルズ経由でケニヤのモンバサに到着した。全体では一ヶ月かかった。アフリカに夢を賭けるインド人移民に混じり、船底の蚕棚のような鉄板ベッドの上で毎日カレーを食い約2週間を過ごした。アフリカについた後は東アフリカと南部アフリカを中心にほとんどヒッチハイクとバスで貧乏な旅をした。

アフリカ行きの目的は、当時の東京農大農業拓殖学科(現国際農業開発学科)の仲間たちとアフリカで農業をやろうと考えその代表として、現在インドネシアとマレーシアで百姓をやっているSと二人で長い旅に出たというわけだ。

以来、〈サハラ旱魃救援委員会〉という今でいうNGOを仲間と立ち上げ、旱魃と飢餓に苦しむチャド共和国へ救援物資を自分たちの手で届け、さらに〈青年海外協力隊〉ではタンザニアへ行った。その時スワヒリ語をおぼえたのがきっかけで1979年以来現在のテレビ番組のアフリカ関係の仕事をするようになった。

【パキスタン航空】

80年代から90年代、安いこともありアフリカ行きのほとんどはパキスタン航空を利用した。成田→マニラ→バンコク→カラチ(一泊)→ドバイ→ナイロビ(そこからさらに奥地へと飛んだ)。今もアフリカは遠いがその頃はさらに遠くタフな旅だった。しかし週2便のPKは何故かいつも日本の若者たちで溢れていた。一人旅、女連れ、たくさんのバックパッカーたちの夢で溢れていた。フィリピンのチャーミングな女に会いに行くのか早々にマニラで降りてしまうオヤジたち、さらに旅人のメッカ、バンコクでは当然かなりの数が降りる。カラチまで行く者は中々の強者といっていい。そこからさらにアフリカを目指す者たちは深夜、カラチの「ミッド・ウェイホテル」という小汚い安宿に放り込まれる。現代の"砂漠の奇跡"、ドバイの飛行場もまだ今とは違って小規模でキンキラ金ではなかった。最後、アフリカまでたどり着く者はそう多くはなかったが、それでもそれなりの数がいた。

あれから10年、そして20年、今、そこにあの頃の熱気、日本の若者たちの熱い何かはない。
関空から噂のエミレーツ航空でドバイまで10時間、さらにそこから5時間でケニヤの首都ナイロビに着く。近くはないが以前と比べればあっという間だ。年を食ってきた私にとってはありがたい。しかし凄く寂しい。何故か、老若男女を問わずアフリカまでやって来る日本人がほとんどいないからだ。過去の熱気とエナジーを知るだけにそれは痛切だ。たまにいる同胞といえば、JICAのスタッフ、あるいはサファリの格好をした年配の方たちくらいだ。みなドバイで降りてしまう。ほとんどがショッピングだ。買い物が悪いわけではない、外貨を使いそれなりに世界経済に貢献しているだろう。以前はバンコク、シンガポール辺りが日本人の西の端だった。快適な島国で大半を過ごす日本人にとっていったいフロンティアってなんだろう、そもそもぼくらにフロンティアは存在するのだろうか。 でも"昔"は確かにもう少し飛び出していた。その頃のエネルギーはどこへ消えたのか。

【ナイロビ】

約40年間、多分150回近くアフリカに行ったかもしれない、テレビ番組のコーディネーター、サファリ・ガイド、そしてアフリカ紛争取材など、ケニヤの首都ナイロビをベースにすることが多かった。ソマリア、南部スーダン、コンゴ、ルワンダ、ウガンダ、ブルンディ等々、紛争地の多くはナイロビからアクセスできた。さらに関連する国連機関、NGOもまた多かった。10年くらい前までは日本人も700人前後と少なくなかった。

70年代、80年代は時に1000人を越えていた。当然日本料理屋も多かった。「赤坂」「サムライ」「将軍」「日本人倶楽部」等々、"サンマ定食"などをいただき取材の疲れを癒してもらった。店の方もよく頑張っていたように思う。今、日本人は400人前後、純粋の日本料理屋に至ってはゼロに等しい。バックパックを背負った若者もまた同様だ。

何故そうなってしまった(アフリカから日本が引いていった)のか?そうなってしまったことの何が問題なのか?旅する若者が多かったワケを単に過去の右肩上がりの日本経済に求め、また現在の世界へ向って旅をしなくなった答えをインターネットの普及のせいにしてしまうだけでいいのか、そうした見方は安易に過ぎ、またどこか危うくはないか。それはもっと根本的問題-----たとえば"人間力""民族の力"の衰退の問題ではないのか。

いったいどこへ消えてしまったのか、日本人の夢と力は。何故、日本人の夢と力は萎んでしまったのか。

アフリカは間違いなく世界のフロント・ライン/最前線の一つだ。解説するまでもなくそこには「人間的危機」から「資源争奪」まで、現代のあらゆる問題が集中し、中東、アジア、そしてロシアから欧米に至るまでほとんどの国がしのぎを削り、私益から国益に至るまで血みどろの戦いを展開している。
だがそこに日本(しかもアフリカを一度も植民地にしたことがない)のプレゼンスはない。

今、そこに強烈な反面鏡が現れた。中国だ。インド、ロシア、韓国もまた続いている。しかも勢いがある。(冷戦時代にも中国はアフリカに進出していたが今とは明らかに意味も勢いも違う)
安直な例で申し訳ないが、日本料理屋が激減したのに反比例するかのように中国料理屋は激増した。正確な数はわからないが、簡単なテイク・アウトも含めればナイロビ市内だけで40、50は下らない、当然、中国人たちの数もうなぎ登りだ。ナイロビの中心部にはなんと日本でいう"100円ショップ"までオープンさせた(品質が悪くケニヤ人には不評で直ぐに一時閉鎖に追い込まれたのは中国らしい)、さらに驚かされるのは、中国人サファリツアー客の増加だ。マナーには問題があるがかれらは十分にサファリを楽しみ、金を落としている。レストラン同様、ここでも日中が逆転している。

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