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黒い鎮魂/ブラック・レクイエム 第14回

【ヤマ(鉱山)】

鉱山開発は広範な産業の結集があって始めて可能になる。採掘は人間の労働力に追うところが圧倒的に多いが、問題はその運び出し、積み出しだ。これには道路建設、鉄道建設、さらに外国へ持ち出すための港の整備を要する。どれをとっても莫大な金のかかる難事業だ。現在もアフリカに引かれている鉄道、基本的道路網のほとんどはそうした目的で、欧米植民地列強が過去に引いたものだといっていい。大規模建設事業への投資は本国をはじめ、外国からの資本投下に期待するとして、採掘のための人集め(誘拐も含む)、強制労働と監視は自前の統治システムの中でやらなければならない、ここにもう一つの支配の要があった。

現在もなお基本的変化はないが、当時のヤマ利権の攻防は4すくみの状態だった。ベルギー、南ア、イギリス、そしてアメリカだ。コンゴのヤマを巡る最初の対決は、カタンガの鉱物資源を争うベルギーとイギリスの帝国主義国同士の対決だったことは前にも触れた。デ・ビアスの創設者セシル・ローズの野望と1899年に設立された英国南アフリカ会社の進出がレオポルド、さらにベルギー本国ともカタンガでぶつかりあう。それより以前の1887年、レオポルドは、当時ベルギーで最も強力な企業合同体、持ち株会社であるソシエテ・ジェネラル・ベルギーの下、植民地で最も古いとされるコンゴ商業・産業会社(CCCI)を設立、さらに子会社を作りカタンガ鉱山の開発、独占を狙った。この時、一帯を支配していて割譲に反対、抵抗したアフリカ人の王、ムシリを殺害、レオポルドは開発、独占のフリーハンドを手にした。ムシリの抵抗はラスト・アフリカン・レジスタンスといわれている。

CCCIは最初の事業としてコンゴ低地の鉄道建設に着手、西アフリカ、カリブ海、さらに中国からも労働者を輸入した。事業の一層の拡大を図るため、1900年、国家と企業の合同が行われ、ジョイント・ベンチャーであるCSK(カタンガ特別委員会)が設立される。1960年の独立までCSKは土地と鉱山権を所有する複合企業となった。しかしCSKの最大の事業は、カタンガの最大企業――UMHK(ユニオン・ミニエール)の起業(1906年)だった。コンゴの最も重要な企業として、レオポルド、ベルギー王室とも関係の深いユニオン・ミニエールはコンゴ(植民地時代、ルムンバ)→ザイール(モブツ)→コンゴ(カビラ)の時代を通じて、ヤマ(鉱山)を巡る争いの中核として常に顔を出してくる。

ユニオン・ミニエールの起業が、TCL(タンガニーカ・コンセッション会社)のオーナーであり、セシル・ローズのパートナーでもあるロバート・ウイリアムスとレオポルドとの交渉、妥協の中で生まれ、さらにTCLがユニオン・ミニエールの株式の約15%を所有していたとなると、すでに、南部アフリカにおける鉱山採掘の体験、富をベースにアングロ・サクソンのコンゴの鉱山に対する食い込みと進出は始まっていたことになる。このことがそれからおよそ100年後に起きるルワンダをはじめとしたグレイト・レイクス一帯に起きる大変動、大事件の具体的始まり、と言わないなら種を播いたといってもいい。

コンゴの鉱物資源の争奪を巡り、ベルギー、イギリス、南ア、そしてアメリカの間の緊密且つ複雑な関係がそこには構築されていた。TCLの株の48%はイギリスのバークレイ銀行、ロスチャイルドが所有していた。大西洋、インド洋を問わず、掘り出した鉱物を本国へ運ぶための鉄道建設→輸出用の港湾建設は欠くことのできない戦略的事業だ。1911年、TCLの手によって大西洋に面したアンゴラのロビトとカタンガのコルウェジ、エリザベートビル〈現在のルムンバシ〉を結ぶベンゲラ鉄道の一部は完成した。

TCLはベンゲラ鉄道会社の大株主であると同時に、カタンガ最大の企業であるユニオン・ミニエールの株式の半分近くを所有していた。ベルギー領コンゴの資源開発でありながら、すでにイギリス資本も深く食い込んでおり、株の持合などによる植民地における国際化、ある種のグローバリゼーションは想像以上に進行していた。金、ダイアモンドなどの鉱山開発経験の豊富な南アは、多数のアフリカ人鉱山労働者をカタンガへ送り込むことによってコンゴにもさらにその存在感を示した。

何故、「インド洋を問わず・・・」と書いたかというと、1970年代の前半、まだ豊かとはいえなかった中国が、低利の好条件でやはり鉱物資源(とくに銅、銅からはコバルトが採取される)に恵まれ、コンゴに隣接するザンビア(かつての北ローデシア)と、インド洋の港町タンザニアのダルエス・サラームを結ぶ約2500キロに及ぶ鉄道〈タンザン鉄道〉を建設したからだ。タンザニアのニエレレ大統領の進めるアフリカ社会主義と、中国共産主義のアフリカへの拡大を求めてアフリカに進出してきた中国の利害が一致、建設は急ピッチで進められ、1975年完成を見た。

ザンビアを出発点とすることによって、そこに中国の反帝国主義、資源獲得の大いなる野望の楔を打ち込んだ。いわばアフリカまで乗り出し欧米列強に喧嘩を売ったも同然だ。余りにも壮大ではないか、日本はそうした国を相手にしているということを分かっているのだろうか・・・。

ちょうどその頃(70年代半ば)、オレは青年海外協力隊でダルエス・サラームに赴任していた。しばしば中国人の姿を目にした、かれらはお決まりの青い菜っ葉服に身を包み、麦藁帽子を被って歩いていた。集団キャンプを作り全て自給自足で生活、労働をしていた彼らはできるだけ地元民との接触を避けていたように思う。それが中国のやり方だ。地元との交流がないことを批判する向きもあるが、ヨーロッパ列強が自分たちの目の前の利益のためにアフリカ人を巻き込み、劣等化し、強制労働に駆り立てたことと比べると、よっぽど正しいのではないか。

さらに90年代末、ある番組ロケで、タンザニア南部にあるセルーというゲーム・リザーブ(タンザニアでは狩猟は一部解禁されていて、セルーにはハンティング目的で訪れる欧米人が引きも切らない)に行った時のことだ、北部には部分的にタンザン鉄道が通っていて村人の道路?代わりとして使われていた。オレもその線路の上を2時間ほど歩いた。レールの下には白い真新しい石が敷き詰められ、手入れの良さが知れた。だが、驚いたのはそんなことではない、コンクリート製の枕木一本、一本に全て《中華人民共和国》という刻印が押されているのだ。

仮にザンビアまで2000キロとしても一体何本の枕木、いや《中華人民共和国》という刻印が、押され、続いているのだろうか・・・・、それを考えた時、久しぶりに民族の意志というものの存在を強烈に感じた。何が正しい援助、ODAなのかという議論をそれははるかに超えていた。何よりも、ここに在りという意志と力(戦略といってもよい)が伝わってくるのだ。枕木は、これまでも、これからもやはりアジアにおいて、欧米列強と互角に渡り合えるのは中国しかいないのだと強烈に叫んでいた。

カタンガの鉱山地帯の最大の特徴の一つにウランの産出がある。銅、コバルト、錫、そしてウランを生産、支配していたユニオン・ミニエール、そしてベルギーの関連企業、国の利益は莫大なものだった。会社から支払われた輸出関税がコンゴ政府の歳入の半分を占めていたという。カタンガのシンコロブエ鉱山から掘り出された1500トンのウランをアメリカが直接買い付け、広島、長崎に落とした原爆製造に使ったのは良く知られた話だ。

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