Untold FRONTLINE [大津司郎サイト]

黒い鎮魂/ブラック・レクイエム [トップページ] > 第9回

黒い鎮魂/ブラック・レクイエム 第9回

◆コンゴ

【パトリスの朝】

全てはこの男から始まり、この男の暗殺でアフリカの運命(東西冷戦と鉱物資源争奪の行方)は決まった。爆発寸前のアフリカの火薬庫をある大きな力はほぼ永遠に封印してしまった。男の名はパトリス・エメリ・ルムンバ。1925年7月、コンゴ、カサイ州カタコ・コンベ村生れ、テテラ族。

コンゴ、それは神の祝福、石油を除く世界最大といっていい埋蔵量を誇る鉱物地下資源、あらゆる種類の作物を育む肥沃な大地。面積は日本の約6・2倍(234万平方キロ)、赤道をまたぐ広大な大地は濃密な熱帯雨林とサバンナに覆われ、その霧に霞むジャングルの下をコンゴ河が流れている。「コンゴ河」の著者、ピーター・フォーバスをして「全ての河を呑み込む河」と言わしめた河は、さらに驚くべきことに二度赤道を越える。内陸アフリカの高地を発した流れはまずひたすら北を目指した後、キサンガニの少し南で一度赤道を越える、その後大きく湾曲しながら西に向かい、北から注ぎ込むウバンギ河を併せる手前で再び南に向って赤道を跨ぐ。こうした奇異は、世界中見てもコンゴ河をおいて他にない。毎秒150万立方フィートの水量をもって流れは一気に大西洋へと注ぎ込む。この稀に見る神の御技はしかし、コンゴに生まれ育った人間たちにけして幸せをもたらさなかった。鬱蒼としたジャングルの中で行われてきたこと、それは苛酷な植民地支配、搾取といった言葉を超えた犯罪、金に目がくらみ、金を追い求めた人間が犯した恥ずべき欲望と罪という以外表し方を知らない。それは同じ人間をして胸糞が悪くなるくらい凄絶だ。人間と文明の正体、結論はすでに出ている。

だが、そうした闇の彼方から一人の男が姿を現した。

これまでオレは無数のアフリカ人に会ってきた。パトリス・ルムンバをして作家、研究者は賞賛の中にもある批判を込めて言う、アジテーター(扇動)、パワー(力)、タフネス(不屈)、レストレス(止まない)マーキュリー(快活な)、ボラタイル(爆発的)、そして全てを併せ持つカリスマ(教祖)だと。全てを兼ね備えていないにしても、オレもまたそうした男たちを見てきた。一歩間違えばそれらは公を欠いた単なる自己主張の変形にしか見えない場合も少なくない、だが、その熱さ、とくにパトリス・ルムンバが持っていたその熱さと爆発力に権力は危険、きわめて危険な匂いを嗅いだにちがいない。しかもそれがたった4年間の初等教育と郵便局員になるためのわずか1年間の技術教育の中から生まれたとしたらだ。

カソリックの家庭に生まれ、普通に初等ミッション教育と郵便局員のトレーニング・コースを受けた後、レオポルドビル(現キンシャサ)とスタンレービル(現キサンガニ)で郵便局員として働いた後、その弁舌能力を買われビール会社にスカウトされ全国(コンゴ)をビールのセールスをして歩き、彼はコンゴ社会の「evolues」(中流クラス)へと成っていった。1951年、パオリーンと結婚、その後しばらくスタンレービルを中心に政治活動、編集活動などを行い、ベルギーにも3週間ほど滞在、55年には郵便局時代の使い込みが発覚、逮捕、拘留されたが翌56年には弁護士の尽力により釈放。58年にはルムンバの政治活動の基盤となる部族の枠を越えた政党MNC(コンゴ国民運動)の設立に参加、リーダーとなる。MNCの基本的政治目的は次のように書かれていた。植民地からのコンゴ人の解放、民主的独立国家の樹立。当時、コンゴの主な政党にはバコンゴ族を中心としてかつてのコンゴ王国の復活を目指しコンゴ独立運動の火付け役となったABAKO、リーダーはジョセフ・カサブブ、カタンガ、カサイ州を本拠地とするルンダ族が中心でモイセ・チョンベの下でカタンガの分離と自治を目指すCONAKAT、さらに中立、ベルギーとの強調を目指すPNP、そして地方分離、連邦制を目指すABAKO、CONAKATに対し、統一コンゴを目指すルムンバ率いるMNCなどがあった。

ルムンバは12月には、ガーナのアクラで開催された全アフリカ人民会議にMNCの代表として出席、当時アフリカ解放運動のリーダーでもあったガーナのエンクルマ大統領の唱えるパン・アフリカニズムに強く影響されると同時にルムンバはコンゴの即時独立を胸に抱き帰国、レオポルドビルの集会に馳せ参じた多くの大衆に向かって、独立はベルギーから与えられるものではなく、それはコンゴ人の権利なのだと熱く訴えた。アクラのパンアフリカ会議は確かにルムンバの過激性をさらに加速させた。この辺りから、ルムンバが葬り去られるまでの時間は余りにも短い。ルムンバは確かに誰かが評したようにレストレス(止むことを知らない)だった。MNCの植民地解放、即時独立要求は日増しに高まっていった。ついに59年10月、ベルギー軍のタンクまで出動し、30人が死んだスタンレービルの反ベルギー、植民地暴動を煽ったとしてルムンバは逮捕される。12月の地方選挙で大勝した勢いでMNCは当局に圧力をかけ、ルムンバの釈放に成功。独立への過激な行動、要求の高まりに危機感を抱いたベルギーは、1960年1月、首都のブラッセルでコンゴ植民地の独立を認める方向で円卓会議を開催、各政党が代表を送った。会議で同年、6月30日の独立が決定され主権国家コンゴが誕生することになった。時の支配者ボードワン国王は流血よりも、制度的移行を選択したのだ。

釈放直後、急遽ブラッセルに駆けつけたルムンバは円卓会議の場において次のように演説した。

「20世紀の恥辱たる植民状態の廃棄を要求したのであり・・・・国の領土を乱すような企てには反対して戦う。・・・・全ての人に門戸を開くが、帝国主義的目的を持つ者は個人でも国家でも許さないであろう。われわれは専制政治のもとにあって豊かに暮らすよりは貧しくても自由であることを選び・・・・中央アフリカの中心に偉大にして統一された強い勤勉な繁栄の国をつくり上げることを切望する」(コンゴ報告/外交知識普及会)。

【映画祭・恵比寿】

長身、痩せ型でなお且つ激情に溢れている。何年か前、東京、恵比寿で行われたアフリカ映画祭でオレは「パトリスの叫び」という映画を見た。パトリス役を演じたエリック・ブリアニーの真に迫った演技には心打つものがあった。苦悩の中にも、タフネスとパワーもまた表現されていたように思う。一方、オレのいくつかの資料の中に、30年以上も前に、タンザニアの首都のダルエス・サラームの本屋で買ったパナフ(Panaf)発行の『Patrice Lumumba』(1973年)という本がある。問題?はその表紙の写真にある。白い開襟シャツを着た男がトラックの荷台に座らされている。見えている左腕は腰の後ろの方に回されている。おそらく手錠を掛けられているのだ。後ろには銃を手にした兵隊の後ろ姿が写っている。7・3に分けられた縮れた髪は幾分盛り上がっている。本にはCover photoと題して説明が載っていた。「1960年12月2日、レオポルドビル、ンジリ・エアポート。ルルアバーグから移送されてきた後、トラックの荷台に乗せられたパトリス・ルムンバ。前夜、ポート・フランキーで捕らえられた彼はモブツの軍隊によって殴られた」。大きく二重瞼に縁取られた二つの目が悲しみを湛えながらやや虚ろに何かを見つめている。それは悲しみともつかない・・・・、どこか思案気でさえある、自分自身のこれからなのか、コンゴという国の行く末についてなのか、やや横に開いた鼻の下には口髭が蓄えられ口は軽く横に結ばれている。写真からはタフでパワフルなカリスマの姿は見ることができない。そこの印象がやや映画とは違っていた。写真はルムンバが処刑される約一月半前に撮られた。

第8回 ← | → 第10回