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黒い鎮魂/ブラック・レクイエム 第4回

【ジョン・ガラン/南スーダン】

2005年1月22日、南スーダン、ルンベックの町のエア・ストリップ(未舗装の滑走路)の周囲は大勢の人間で埋め尽くされていた。横断幕が広げられ、手に手に小旗を振りながら一人の男の到着を今か遅しと人々は待っていた。群集が掲げる一枚の白い大きな布には、「SPLAは即戦争政策を止め、発展と平和のための政策に転換すべきである」と描かれていた。赤い服をまとった軍楽隊がドリルをしながら音楽を奏でている。警備、護衛の兵士たちの数も徐々に増えてきた。

オレもカメラを構え、男の到着を待っていた。ここは、『月刊アフリカ/2005年5月』に書いたオレの文章をそのまま引用させてもらう。「スーダン人民解放運動/解放軍(SPLM/SPLA)のリーダー、ジョン・ガラン・マビオルの南部への帰還である。つい2週間前の1月9日、ケニヤの首都ナイロビに世界各国の首脳が集結して、21年間に及ぶスーダン内戦終結のための和平合意の調印とセレモニーが行われた。この日、ジョン・ガランはその成果を民衆に報告するため、さらに議会ともいうべき国民解放委員会(NLC)からの最終的承認を得るために、『包括的平和条約(CPA)』の分厚いドキュメントを携えて帰ってきた」。

1機、2機とやって来た飛行機からは国連関係者や、各地区司令官たちが降りてきたが、ガランの姿はなかった。それからさらに1時間、群集のざわめきが大きくなった。胴体に赤いストライプの入ったやや大型の双発機が赤茶けた砂塵を巻き上げながら着陸した。後方のドアが開くと同時に、ジョン・ガランの巨体が小さなタラップを揺らすように降りてきた。一斉に湧き上がる歓声、指笛、ほんとうに平和は来たのか、それを思わせるほど、希望が一帯の空に向って湧き上がった。オレはできる限り接近してガランの姿を撮った・・・。

ちょうど10年前の1995年10月、オレは、ジョン・ガランに逢うために南スーダンのサバンナを車でとばしていた。とはいってもゲリラやミリシアからの攻撃に備えて厚い鉄板で覆われたトラックのスピードがそんなに出るわけではない、岩だらけの山道に差し掛かったときなど時速10キロに落ちる。ローに叩き込まれたギヤボックスからは唸りとも悲鳴ともつかない轟音が叫びをあげる、唸りと熱気に包まれた運転席はまるでサウナ風呂だ、運転手の額からは大粒の汗が落ちる。こうした悪路、危険に満ちた尋常ではない道を地元ケニヤの運転手たちは安月給にもかかわらず、国連に委託された救援食料を満載して奥地にまで届けるのだ。中には途中で、発狂寸前になり、荷物を積んだままトラックを放り出して行方をくらます者もいるという。苛酷な商売だ。

SPLAナイロビ本部に出した一通の紹介状がすでにガランの手元に届いていることを信じてオレはガランがいるという場所を目指して急いでいた。陽はすでに山の端にかかっていた。夕刻、ある開けた場所にたどり着いたものの、しかしガランはいなかった。一気に疲れが襲った、しかも運転手が言うにはもうこれ以上進めないという、ガス欠だ。だが、SPLAの男の話しではガランはさらにここから7、8時間走ったところにいる「ハズ」だという。ジーゼルはあるか聞いたが、そんなものはなく空のドラム缶が転がっているだけだった。最近拓かれたばかりのその場所はニュークシュと呼ばれ、SPLAの関係者と、村人が少し住んでいるだけだ。辺りにはソルガムの畑が広がっていた。

その日は結局、NGOのテントを借りて一泊した。翌朝も、ガランのいるらしいベースと燃料の確保について無線でやり取りをした、しかしらちがあかなかった。無線係が言うにはガランは来いと言っているという。だが燃料の保障なくして動くのは危険だ。燃料を使い切ったところで終わりだ。誰も簡単には助けてくれない、運転手は体験からそのことを誰よりも理解していた。危険に満ちた紛争地帯で動く時、どんなGPS、どんなナビ・システムよりもかれ等の体験から来る勘と知恵が勝っている。オレは「また」来ようと断念した。だが見方は甘かった。その「また」ジョン・ガランに逢えるまで10年を要したからだ。

男からは、ジョナス・サビンビとも違う、しかし紛れもないオーラが出ていた。サビンビのそれがやや翳りのあるオーラだとすると、ガランのそれは、どこか陰を宿しながらもしかしその陰を圧倒するパワーに包まれていた。ジョン・ガランもまた稀代のそしてアフリカ屈指のカリスマであることに違いなかった。彼らが凄いのは、実際に野に出て苦しい環境、状況の中、敵と戦ってきたということだ。そうしたタフネス、パワーはそう簡単に接することができるものではない。男たちは生きながらにしてすでに動く伝説(legend)と化していた。

軍楽隊がアンセム(解放軍歌)を奏でる。行く先々で平和の象徴とされる白い牛が屠られた。強烈な日差しの下で鮮血が赤い大地をさらに赤く塗っていた。群衆と兵士に囲まれてガランは歩いた。興奮と砂埃が辺りを包む、息苦しいくらいだ、抜かれまいとカメラを回しながらオレは必死に後を追った。夕方、ルンベックのフリーダム広場で、ガランは群集に向けて演説を行った。戦いの終わり、平和、そして南部の復興と発展についてガランは熱く、熱く語りかけた。ディンカ語、英語を使い分けながら演説は3時間に及んだ。すでに森の向こうにはオレンジ色の光が沈み、森はシルエットへと変わり始めていた。ガランの演説が終わった後も立ち去りがたい群集がいくつもの輪になっていた。歌声が響き、牛が動く度に首に下げられたカウベルが鳴っていた。

ガランが白いランドクルーザーに乗りこんだその隙をついてオレは走り寄った。10年振りの「再会」だ、車は動こうとしていた。10年前の、そんな事情を話している暇はなかった。助手席に座ったガランに窓越しからカメラを向け、「議長!日本から来たジャーナリストです、何回も南部に来ました、レポートもさせてもらいました。トマス・シリロ(司令官)にも会ってます」、多分オレは焦りからか訳の分からないことを口走ってたかもしれない、「南部の将来、それと一言日本へのメッセージをお願いします!」、以外にも答えてくれた。「・・・・・」、訳の分からない質問?に微妙な笑みを浮かべて答えた後、「そう、日本とはいろんな協力関係を結びたい、それにたくさんの開発プログラムも用意しているしね」、わずか数分のこのコメントが、オレとガランの最初で最後の出会いだった、いや10年前の燃料切れの結末だった。

ランクルの後部のバンパーに載っていた男が車のボディを叩いた、ガランを乗せた車はごった返す群集の中に消えていった。それから6ヵ月後の7月31日以降、ジョン・ガランは二度と南部の大地を踏むことはなかった。ヘリコプターが墜落してゆく時、男は何を思っていたのだろう。悪天候ならば「運」を、撃墜(暗殺)ならば、「裏切り」について、だろうか・・・・。オレはとくにジョン・ガランとジョナス・サビンビを物語の最初に挙げた、それは、幸運にも二人と直接会う機会を持ち、わずかとはいえ、その人となりに接しているからだ。当然印象も強い。

■次週(5月14日)へ続く

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