Untold FRONTLINE [大津司郎サイト]

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2009ソマリア取材報告 [1]

1【モガディシュ】

眼下に広がるソマリアの海の色はトルコ・ブルーだった。モガディッシュの飛行場に向け着陸態勢に入った機は次第に高度を下げつつあった。
オレは今朝早く、今世界で最も危険な国のひとつソマリアを取材するため、ケニヤの首都ナイロビを飛び立った。だがすぐに機内でソマリア人の男から脅かされた。
「外国人が今、ソマリアに何をしに行くんだ」

「・・・・、取材だよ」

「馬鹿を言うんじゃないよ、誘拐されるぞ、いや殺されるな」

男は笑いながら無気味に言い放った。
海の色の美しさとは裏腹にオレの心はもの凄く暗く、「なんで来てしまったのだろう・・・」、不安と後悔が胸を突いた。ナイロビを飛び立ったときも、機はメインの発着場所ではなく、何故か一端カーゴ(貨物)機の駐機場まで行き、そこからソマリアの首都、モガディシュに向けて離陸した。確かにナイロビとモガディッシュの間に定期便は飛んでいるが、現在それを利用する外国人は皆無に近いという。

紛争地取材でのトップ・プライオリティ、それはセキュリティ(安全)≠フ確保だ。しばしばアフガニスタンの戦闘や自爆テロなどについて報道されるが、それはアメリカが直接介入しているからだ。だが、その危険性において現在のソマリアはそれを上まわると言っていい。報道されないだけで、とくにここ数ヶ月間(2009年7月以降)は毎日、数人から数十人が戦闘またはテロで命を落としている。負傷者も併せれば100人を越すこともある。犠牲者の大半が市民であるというのもさらに悲劇的だ、それが世界のいわゆるメジャーなメディアで伝えられないところに、ソマリアとイラク、アフガンとの違いがある。何故ソマリアがメジャーなメディアによって報道されないのか、それはアメリカの戦略と関わる興味深い問題であるがここでは触れない。

今回のソマリア取材(10月)は、その半年前の4月から準備をしていた。準備の最大の要点はセキュリティの確保、すなわちネットワーク(コネクション)の構築だ。簡単に言うとまずあるアフリカ人に通じる、そこから数人のソマリア人に繋がる、そこからさらに現地モガディッシュのセキュリティのプロへと繋がり、何とか安全確保の形ができる。もちろん仕事としての取材(今回はビデオ撮影)の成否は安全だけではない、さらにそこからどれだけの政府関係、地元軍閥、海賊、ミリシア(武装民兵)、ビジネスマンなどへと繋がっていける力、ネットワークを持っているかに取材の成否はかかっている。後はそこに運≠ニいう不確定要素をどれだけ引っ張って≠アれるかだ。

今回の取材には二人のソマリア人が同行している、かれらは強力ではあるがあくまでも最低限の担保に過ぎない、問題は彼らがさらにそこからどれくらいのソマリア現地のネットワークを持っているか、あるいはそれを構築できる力〈コネと力〉を持っているかだ、その力を現実化させるのが彼らに渡すカネだ。ソマリアのような危険地帯での取材は決して安くはない、金を渡す相手を信用、信頼する以外に、なす術はない。虎穴に入らなければ取材の果実は得られない。

ソマリア取材は今回で3回目だ。1回目は93年1月、アメリカ軍のソマリア介入の時だ。1週間ほど首都のモガディシュに滞在した。
当時冷戦に勝利し、クウェートを不法占領していたイラクを力で追い出し、湾岸戦争に勝利したアメリカはブッシュ大統領の下「新世界秩序」を打ち出し、自信に溢れていた。ちょうどその頃(91年〜92年)、イラクからさほど遠くないアフリカの角/ソマリアを舞台に内戦が起き、数十万の人間が死に、さらにそれを上回る数の人間たちが餓死に直面していた。戦いは東西冷戦のパワーゲームからしこたま武器と金を手にしていたシアド・バーレ大統領と独裁者打倒に立ち上がった武装勢力(軍閥ファラ・アイディード他)との間で行われていた。激しい戦闘の中多くの人間が死にソマリアは荒廃していった。

その時、欧米のメディアは競ってソマリアの悲劇を茶の間に伝えた。テレビ、雑誌を問わず現地から送られて来る生きる骸骨と化した人間たちの姿に欧米の市民社会も即座に、また過剰なまでに反応した。冷戦が終結したばかりでアメリカを中心とした世界はまだバラ色の夢の中にいた。メディア、市民、NGOは「何とかできないのか」「ソマリアを救え!」と国連に圧力をかけた。アメリカもまた人道的見地≠ゥら素早く反応した。

「何故子供たちは飢えるのか?!」、それは悪い奴ら=ソマリアのゲリラ、ミリシア(武装民兵)たちが、世界からソマリアに送られる救援食料を強奪するからだという。若干の治安維持と救援食料配給を確保するためにその時すでに派遣されていた国連PKO部隊/UNOSOM-1の無能力に失望した国際社会のソマリアを救への合唱と圧力をバックに、92年12月、安保理はソマリア介入を決定(決議794)。イラク軍を放逐した直後でもありソマリアの民兵掃討に自信を持っていたアメリカもまた進んで決議を支持、史上初めて人道≠フために3万人近い完全武装の軍(アメリカ海兵隊)≠ェ動いた。

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