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クライング・サウス 〜 Crying South 第8回

【外出禁止】

メシを食ってお互い幾分頭を冷やした後、プラントAに向って出発しようとした時だ。
ディクソンが浮かぬ顔でやって来た。ディクソンの情報、とくにセキュリティ関係の情報は早い、何故なら、臆病≠セからだ。だが危険地帯ではかっこつけの大胆さよりもはるかに価値ある心持だ。
「ノー・ムーブメント(外出禁止)」
そう言って、どっかと椅子に腰を下ろした。
傍らの日本人(オレだ)は直ぐに時間と金、さらに撮れ高を計算する。
ジェイムスはテントの中だ。
「何でだ?」
「プレシデント(サルファ・キール/南部政府大統領)が来るらしい、そこら中兵隊だらけだ」
(またか、とオレは内心腹が立った)
兵士を満載したトラックがどこかに向って走っていった。
ディクソンがややうつむき加減で下を向いて歩いてくるときは要注意だ。
その後、必ず「イコ、シダ(iko--shida)/問題だ(スワヒリでプロブレン)」という。
日本では考えられないが、ここ南スーダンのように、{セキュリティ/安全}と{ミリタリー/軍事}が最優先の国や地域はまだまだ世界には多い。すべてにおいて、安全/セキュリティ≠越えるプライオリティ(優先順位)はないからだ。

大統領がほんとに来るのか、来ないのか?時々がせねたで終わる場合もある。それにしても大統領が来るというだけで、すべてが止まるというのは、先進国では考えられないが、アフリカでは一般的だ。権力というものの存在を露骨に感じる時だ。
中庭でたむろするオレタチの前を、荷台に満タンの水入りドラム缶を積んだロバの牽くリヤカーが通った。
今日は警備で昼飯を食べる時間がないのか、司令官一行はホテル≠ノは来ないようだ。疲れたのでテントに戻って、1、2時間もすると、コーランの吟唱が流れてきた。あっという間に、夕方が来た。

今度はジェイムスも加えて3人は、買って来てもらったハイネケンの缶ビールを飲みながら、アフリカのとめどない話をした。この時期、ほとんど蚊はいないのでジェイムス以外は短パンの格好だ。すぐに黄昏が辺りを包み、草むらの中でカエルが鳴き始める。ほぼ一日はこれで終わりだ、っていう気分になってしまう。
夕飯を食べたら、しばらくしてまたジェネレーターが回り始める。

【降りるな、早く撮れ】

結局、サルファ・キール(大統領)は来なかった。今日は動けるらしい。
ディクソンが眠い目をこすりながらやって来た。
昨夜はジェネレーターの音以上にテントの直ぐ横の食堂で、女たちが朝方近くまで見ていたビデオの騒ぎがうるさかったらしく、怒っていた。
車が来た。
オレタチはプラントAに向った。飛行場への道をしばらく走った後、舗装された道に入りさらに走った。辺りにはアカシアの森が広がっていた。さらに進むと送電線の数が増えてきた。やがて森の向こうにオレンジ色の小さな炎が昇っているのが見えた。石油プラントだ。青空の下でオレンジの炎はゆらゆらと揺れていた。それは富の象徴なのか。

炎を吐き出す煙突は銀色の複雑な建造物で囲まれていた。その上には無数の送電線が垂れ、さまざまな方向に向っていた。そこから生まれるすべての電力は北/ハルツームへと向っているはずだ。
プラントは金網の塀で囲まれ静まり返っていた。捜したが人の姿は見当たらなかった。それが逆にある種の緊張感を生み出していた。オレが車を降りようとしたとき、ジェイムスが「降りるな」と言った。オレは仕方なく車の中からカメラを回した。

ここ南部スーダンにおいて、北と一体化した中国の石油関連の活動を撮るとはどういうことなのか、オレが想像する以上に南部の人間にとっては微妙で、緊張を生むということだ。

2年後の2011年、南北の立場――南北統一か分離独立かを決める国民投票が行われる。南部が分離、独立すれば石油資源の大半は南部に属し、北は莫大な収入源を失う。それが何を意味するのか、再び戦いが始まるのか、南部人同士の利権を巡る混乱が起きるのか、誰一人として楽観する者はいない。

SPLAの最高司令官であり、南北統一論の急先鋒、そして南部スーダンのカリスマ的存在だったジョン・ガランは、ケニヤの首都ナイロビで南北間の包括的平和条約が締結されてからわずか半年後の7月、ヘリコプター事故を装い何者かの手によって消された。余談だが、それはパトリス・ルムンバ(暗殺/コンゴ)に始まって、ジュベナル・ハビヤリマナ(ルワンダ/撃墜暗殺)、ロラン・カビラ(暗殺/コンゴ)へと連なる一連の黒いシナリオ≠フ流れの中にある。シナリオの描き手が誰なのか、それは石油、レアメタルといった資源を絶対に手放したくない人間たちだということだ。

そんなことを考えている間にも一日約50万バレル(ドラム缶50万本)の黒い金(ブラック・ゴールド)は北へさらに中国へと向かって流れ続けている。
「シロ、早く撮れ」
ジェイムスは辺りを見回しながらオレを急かせた。
まだ誰の姿も見えてない。相変わらずオレンジ色の炎が青空に向って立ち昇っていた。
「これじゃダメだ、もっと近くでハッキリと撮りたい」
「もっとしっかりと撮れるって言ったんじゃないか」
ついオレは問い詰め口調になってしまった。中国の石油プラントをここ南部で撮ることの難しさ、南部の人間たちの間に存在するある種の緊張感を感じた。
それにしてはジェイムスは良くやってくれているのかもしれない。
「シロ!次行こう」
「次って何処だ」
「もう少し入れるのがある」
オレタチは車をリバースさせて現場を離れた。すでに昼近くになっていた。

【プラントB】

プラントBは町の反対側だ。もう一度町に戻ってさらにバハル・エル・アラブ河を渡らなければならない。とにかく車を飛ばすことにした。

バハル・エル・アラブはナイル河の一大支流だ、といっても目の前の流れは川面に水草が浮き大河といった感じではない。古びた橋を渡ると赤茶けたワイルドな道が広がってくる。すれ違うトラックが土埃を巻き上げながらすれ違っていく。荷台からは無数の巨大な牛の角がのぞいている。町の家畜市に連れて行かれるのだ。30分ほど走ると車がゆっくりと止まった。
潅木帯が切れ、右手に広いスペースが広がっていた。そこを横切るように数本の細いパイプが走っていた。その真ん中辺に赤と白に塗られた弁付きのパイプが立ち上がっていた。
「チャイナ・テイクオーバー、フロム・シェブロン(中国がシェブロンから買った石油鉱区だ)」、ジェイムスが説明した。

78年の発見以来、石油鉱区を確保してきたシェブロンだったが、内戦の激化、台頭するイスラム原理主義の流れの中で、92年南スーダンの石油開発から撤退、翌93年にアメリカはスーダンをテロ支援国家に指定。同年にはカナダ資本のアラキスが参入、96年には新たに参入した中国(CNPC)らとともにGNPOC(Greater Nile Petroleum Operating Company)を設立。98年には資金不足でARAKISが撤退、代わって同じカナダのTALISMAN ENERGYが参入。

83年に始まった反政府、反アラブ・ゲリラ闘争は当初から多くの武装勢力の寄せ集めだった。とくにSPLA(スーダン人民解放軍)のリーダー、ジョン・ガランのディンカ族と石油地帯を根拠地とするヌエル族は家畜争奪他、常に主導権をめぐって緊張関係にあった。そこを北のアラブ人たちは巧についてきた。

91年、SPLAはSPLAガラン派(ディンカ族主体)とSPLA-UNITED(ヌエル族主体、後にSSIA/南スーダン独立軍)に分裂、リエク・マシャール率いるSPLA-UNITED/SSIA/Mはディンカのガラン派を倒すためにハルツームと取引をした。ハルツームには当然石油地帯確保の思惑があった。大量の武器が流れ込んだ。ガラン派もまたスーダンの石油資源確保という野心を、イスラム原理主義打倒という大義の内に隠したアメリカから大量の武器を取得した。スーダン政府軍に属していた時代、ジョン・ガラン(大佐)はアメリカで軍事訓練を受けると同時に、アイオワの大学で農業経済学の博士号を取得している。95年、アメリカはSPLAに対する武器援助を一気に数十倍に増やした(在ナイロビ、アメリカ大使館スーダン問題担当スタッフから直接聞いた)。

石油生産が軌道に乗り始めた99年以降、反アラブ、反イスラム原理主義の戦いは劇的にその戦いの中身を変えた。戦いはさらに石油争奪へとシフトして行った。

ハルツームによって武装されたヌエル族主体の南部ゲリラ勢力(SPLA-UNITEDからSSIA/M、さらにSSDFへと名前を変えていった)は、アラブ系ミリシアとともに石油地帯を襲った。道路を作るため、飛行場建設のため、そして巨大な石油プラントを建設するため、地上軍と空(アントノフによる空爆とヘリコプターによる銃撃)からの焦土作戦≠ェ繰り返され15万を越す村人たちが家を追われた。組織の名前の変転を見てもわかるように、ヌエル族主体のグループの中でもリエク・マシャール対反リエク派(パウリノ・マティップ/地域の軍閥)の間で熾烈な主導権争いが繰り返された。さらにジョン・ガラン率いるSPLA主流派による反撃は石油地帯を混乱に落とし入れ、犠牲者たちの数は増えた。戦いは2005年1月のCPA(包括的平和条約)が結ばれた後も続いたが、2006年のジュバ会議ですべての南部ゲリラ、ミリシア・グループがSPLA(スーダン人民解放軍)に吸収され終結した。

戦闘、被災民、村々の破壊そして人権侵害が繰り返される中、石油開発を続ける石油会社、とくに欧米系の企業に対して人権団体から非難の声が上がった。TALISMAN(カナダ)、LUNDIN(スエーデン)など、欧米系企業は手を引いていった。居残った中国はさらに存在感を増した。

車に乗ったままオレタチはさらに進んだ。二本の大きな煙突が見えてきた。プラントは近かった。
右側に事務所と宿舎らしきものが見えてきた。アフリカ人の姿が見えたが北から連れてこられたのかもしれない。中国人の姿は見えなかった。
オレは車の真ん中でカメラを回している。男がチラッとこっちを見た。一瞬カメラを下げかけた。結構ドキドキものだ。宿舎?を通り過ぎるとプラントは目の前だ。フェンスに突き当たり右に曲がる。無数のパイプが地上を這っている。ジェイムスがしきりに「クイック、クイック」と言っている。確かにここで見つかったらまずいのかもしれない。

巨大なタンクが二つ、金網越しの目の前にあった。煙突からは煙が上がっている。
「ヤッタ」という気分とはほど遠いがとにかくオレは南スーダン石油開発最前線、中国の存在を撮った。これがどの程度のものなのか分からない。
(仕込み、前もってのロケハン、アレンジのないすべてが現場直撃取材のこれが限界か、オレのような限られた予算の中での単独レポートにそんな余裕はない)。

オレは車を止めさせた。
「クイック アンド フィニッシュ」
ジェイムスがうるさくなった。オレもオレなりに緊張している。ディクソンをはじめ車の中の連中は辺りを警戒している。車を降りて、塀の中に入ってカメラを回したかった。

【オレンジ色の炎】

目の前にあるのは石油プラント(資源)だ。自国の戦略的資源開発プラントが他国の領土にあることの意味。ここは資源をめぐる戦場≠ニいっていい。そうした現実の中で石油資源≠フ確保が争われているということだ。公開のマーケット(市場)だけではない、こうしたところでどこまで、またいつまで自分たちの資源の確保をできるか・・・・・。しかし世界が一国のみで生存できないのが自明の時代、こうしたことの是非を問う余裕はない。

中国のように強引に相手国との二国間交渉で開発の権利を獲得する。それには最低次の3つのパワーが要る。確かな@政治力、Aネットワーク力(情報/インテリジェンス)そしてB金とC技術力だ。技術力、物づくりの高さを謳う日本にCは別として明らかにC技術をフォローしなければならない@Aはほとんど無い。世界の最低レベルといっていい。現在、内にしか向かずパラダイス日本≠ノ閉じこもるこの国にそうした世界に向っての展開突破力は無い。島国であればこそそうした展開力、突破力が生存条件であるはずなのにパラダイス日本≠ノはそれが無い。Fish & Chips≠ナ世界を制した同じ島国、かつての大英帝国とは真逆だ。

外景を中心にではあるが一応プラントBは押さえた。だがかなりの緊張を強いられた割には、取材的にはどこか中途半端感をぬぐえなかった。しかも安全を考え3人体制で行ったため金も3倍出て行った。疲労感は残ったがただ、現地の人間たちが置かれた状況、生の声だけはしっかりと採れたと思う。

オレはいつも思う、一人アフリカに突出して、いろんな現場、現実に接してきたとして、はたしてこうした実感、体験が何処まで今の日本に伝わり、またこうした情報がどこまで今の日本とその将来に意味を持つのか、その答えはますます否定的に成らざるを得ない(オレとしてはアフリカ体験を日本に還元したい)。何故ならそうした情報を今の日本は必要としないしまた関心もないからだ。では何故、そんな思いをしてまでも、アフリカ紛争取材にこだわるのか。

それはパラダイス日本≠ノ閉じこもり、ただ座っていたのでは、紛争の背後にある世界の@(政治力)とA(ネットワーク力/情報・インテリジェンス)が交錯し、戦われる最前線、世界のスタンダードが見えてこないからだ。逆説的だが人間的危機に満ちているからこそ、アフリカ紛争の中には島国日本に閉じこもっていては決して見えてこない知恵と教訓がぎっしりと詰まっている。いつまでもアフリカを遠いといっているようでは、島国は島国のまま沈んで行く。

何故国家として恥ずべき、「拉致問題」「北方領土問題」を未だに解決できないのか、それは戦後60年、結局この国がそうした世界の現実と直接生身で接し、戦い、揉まれて来なかったからだ。さらにそうしたことにさえ気付いていない。これを書いているとき偶然にも拘束されている二人のアメリカ人記者解放のためにクリントン元大統領の訪朝が伝えられた。拘束、あるいは監禁されている人間の解放は、膨大なグラウンド・ワーク(交渉、根回し)を前提として最後は2国間で決着をつける、すなわち喧嘩に勝たなければならない。

スーダンの大地に建つフェンスの向こうに揺れるオレンジ色の炎、被災民キャンプを割るように果てしなく伸びるパイプライン、そこにどれだけの人間と国家の意志と戦い(スーダン対中国/南スーダンの住民対中国企業/中国対欧米等々)が詰め込まれているか、血と涙と汗が滲みこんでいるか心して知るべきだ。

「クライング・サウス」終了

〈付記〉

これは2008年6月の取材文だが、今年(2009年3月)、今度はまったく一人でほぼ同じ場所を取材した、その時は一時的に捕まったがもう一歩中に入れて取材できた。それは今『ゲリラの朝(仮題)(1993年から2009年までのスーダン紛争取材について)』というタイトルでまとめている。

第7回