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黒い鎮魂/ブラック・レクイエム 第19回

【国連/ONUC】

もう一つの”カタンガ問題”は国連との関係であった。ルムンバのコンゴ中央政府、カタンガのチョンベ、そして国連の三すくみの関係ともいえる。7月13日のコンゴ問題に関する安保理緊急会議で、国連がコンゴ政府の国連介入の要請を受けコンゴに部隊を派遣する基本合意がほぼ成された。コンゴの危機を国際社会の平和と安全を脅かすものと考えた国連事務総長ハマーショルドの対応は素早かった。14日朝には国連部隊(ONUC)の派兵を決定。17日までにはモロッコ、チュニジア、ガーナ、エチオピアの部隊から成る総数3500人の国連平和部隊が首都のレオポルドビルを中心に各地域に展開を終えていた。

コンゴの内政問題に干渉しないことを前提に、その任務内容は「コンゴ政府との合議の上で法と秩序を確保することであり・・・・自衛の場合以外には絶対に武力を行使しない」さらに「国連軍はコンゴ政府の命令に直属することは考えられない」(コンゴ独立史)とした。ハマーショルドは国連創設以来初めて国連に現実的機能を与えようとした、平和維持軍(PKO)の直接管理、支配、権限の集中、さらに事務局の強化である。軍に対する民(Civilian)の拮抗もまた忘れなかった。

だが国連にとって大胆な決断ではあっても、一方、カタンガに武力を持って侵攻しない国連のマンデート(任務権限)は、ルムンバにとっては不十分であり、落胆させるものであった。

このときコンゴには3つの軍隊が並存することになった。コンゴ政府軍、ベルギー軍、そして国連軍だ。さらにカタンガには多くの私兵たちがいた。最大の問題はベルギー軍の存在、とくにその国連との関係に関してだった。ベルギーと国連軍との関係を最も危惧していたのは他ならぬルムンバ自身であった。新生コンゴにとっての救世主?となるべき国連がベルギーと親密に手を組むことになっては、コンゴは救われるどころか、新たな植民地支配へ道を開く事になる。ハマーショルド自身の立場、背後にいるアメリカの意図等を考えると確かにそれは微妙な問題であった・・・・。

独立コンゴ”政府軍”の武装解除が一部国連関係者などから提案されるなど、ルムンバにとっては屈辱的とも思われる状況が続いた。ルムンバにとってこれは国連、ベルギーなど国際社会そのものが敵と映ることを意味した。国連の会議の場でもコンゴ政府代表はベルギー軍の存在は侵略行為であり、即時撤退を要求、一方でベルギー側は人道的であり、自国民保護に限定されていると双方の見方は真っ向から対立した。現実には国連軍の展開にもかかわらず7月半ばには国連軍とほぼ同数(3500人)のベルギー軍が駐屯していた。

新たに生まれたばかりの新生アフリカ国家に旧植民地宗主国の軍隊が居座っている。これは確かに刺激的であり、資源の眠るカタンガの独立問題を考える時、素直には受け取れるものではなかった。何故、このタイミングでカタンガは独立しなければならないのか、一体、背後でダレがそれを画策しているのか・・・、カタンガ問題の処理で国連は試されていた。「我々の現在の態度が国連機構のみならず、アフリカの未来にも決定的な意味を持つもの信じている重大な曲がり角に立たされている・・・」という、ハマーショルドの言葉は奇しくもその後のアフリカ――とくにグレイト・レイクス一帯の運命を暗示しているかのようで実に示唆的だ。

7月後半には、8千を越す国連軍(ガーナ、エチオピア、モロッコ、ギニア、スエーデン軍など)がカタンガを除く全コンゴに進駐していた。この時二つのコンゴの間で、国連の進駐、ベルギーの即時撤退を巡ってハッキリと対立した。国連は敵なのか、それとも味方なのか。コンゴ中央政府は何故カタンガに部隊(ONUC)を展開しないのか国連を強く非難、一方カタンガにとっては、国連軍がコンゴに進駐していること自体が、ルムンバのコンゴ中央政府への屈服を意味するとして国連軍の展開の阻止を決定した。

コンゴの内政問題、ベルギー軍の存在、そして国連の進駐問題が複雑に絡み合い解決を難しくしていた。ハマーショルドは事態打開のために特別代表としてラルフ・バンチ(アフリカ系アメリカ人)をカタンガに派遣したが、結局カタンガの強硬な姿勢に押され何の成果を挙げることなく帰った。8月3日にはカタンガは国連の進駐に反対し、カタンガの全武装勢力の総動員を命じた。

この時、国際政治、現在のアフリカ紛争にも共通する多くのアジェンダが提起されていた。東西冷戦の枠組み、米ソ対立、西側先進国対アジア・アフリカ同盟という対立軸、さらに今日の紛争問題でも解釈、解決の難しい「中立的立場」「マンデート(任務権限)」、そしてソマリアの時に蹉跌した「介入」と「ネーション・ビルディング(国家再建)」等々・・・、カタンガ問題で頂点に達したコンゴ危機はまさに現代アフリカ紛争の原点といっても言い過ぎではない。

カタンガ問題もコンゴの内政、内部問題として解決しようとしていたルムンバは、力によってベルギーを追い出さない国連の対応をカタンガ、ベルギー寄りだとして強く批判した。ハマーショルドとルムンバの対立、相互不信はさらに深まった。ルムンバにとって最後の頼るべき相手は反西欧、反アメリカであるニキータ・フルチショフのソビエトしかなかった。そうしたルムンバに対して狂信的、共産主義者というレッテルが貼られ格好の批判の対象とされた。

確かにルムンバに焦りがなかったといえば嘘になる。現実の目の前にある問題解決(カタンガの野望の粉砕、ベルギー軍の即刻撤退)こそが命であったルムンバに対して、ハマーショルドの方は国連の長として今あるバランス(西側体制)を壊してはいけないという国際政治の力学と自身の描く理想の中で”コンゴ”のあり方(国づくりと安定)≠考えていた。かろうじてゴールは同じかもしれないが、しかし危機感とアプローチがまったく異なっていた。

だが、結論から言って、ルムンバが頼ったソビエトは、西側植民地、帝国主義が数百年にわたって営々と築き上げてきたアフリカの牙城(国連もまた含まれる)においてはほとんど敵ではなかった。コンゴ論争においてハマーショルドは、国連ソビエト代表のアルカディフに対して、バンチ、コディエルといったアメリカ人の冷戦の戦士を側近に配し、徹底的に西側、アメリカの利益=国連の利益に沿う戦いを展開した。

もっと酷な言い方をすれば、ルムンバがソビエトに頼ったその瞬間から、コンゴのリーダーの存在はハマーショルドという国連ワールドの視界から消えたといっていい。郵便局員からのし上がった熱狂的カリスマは所詮”システム”の敵ではなかった。「8月の末には、コンゴ国連機構の全機構が完全に整備された」(コンゴ独立史)。さらに同時期に「コンゴ・クラブ」が作られた、長はもちろん国連事務総長であるが、それ以外にラルフ・バンチをはじめとする多くのアメリカ人も参加した。

今、コンゴについて多くのスペースを割いて書いているが、それは”鎖に繋がれた6人の死”を語るすべて(ジェネシス)がこのコンゴの(危機)の中にあるからだ。恐らくこの時コンゴに起きた危機、事件を知ることなしに、その後アフリカに連続して起きる危機と紛争問題の骨格を掴むことはできない。

ルムンバの死まであとわずか数ヶ月の時間しか残されていない、先を急ごう。コンゴ危機の核心の一つでもあったベルギー軍の撤退は9月初めにはほぼ完了。それでもなお、ルムンバの国連に対する失望と不信感は消えなかった。部族間、また資源をはじめとしたさまざまな利害関係を巡る確執の中でルムンバの急進的手法に対する反対、敵対する勢力もまた活発に活動、ルムンバをさらに追い詰めていった。

カタンガに続き、ルバ族とルルア族の間で長年部族間抗争が続いてきた隣のカサイ州までもが分離を画策、8月にはチョンベ、ベルギーの支援を受けたカロンジ(ルバ族)が分離を宣言、ダイアモンドの大産地であるカサイの離脱はルムンバの中央政府にとってカタンガ同様大打撃であった。ルムンバはカサイへ軍を進めた。多くのルバ族が殺され、100万を越す人間が家を追われた。また人食イがあったともいわれ、ルムンバ軍によるこの時のルバ族に対する攻撃は国際社会によって’’虐殺≠ニして非難された。

ベルギー軍撤退の後さらにルムンバは国連にカタンガ問題の国連軍による解決を要求、拒否され、国連=ハマーショルドと袂を別ったルムンバは独自のカタンガ攻撃を計画、危険な賭けではあったが実際ソビエトの輸送機を使い兵員の輸送を開始した。しかし作戦の細部は杜撰でガーナをはじめとした頼るべきアフリカ諸国からは多くの諫言、反対も受けた。だがそれでも攻撃は実行された。十分な補給体制を持たないコンゴ政府軍兵士らによる略奪、蛮行は非難され、同時に国連は攻撃を陰で支えたソビエトの影響力の増大に重大な関心を持ち始めた。それはルムンバ、イコール共産主義者という見方がさらに強まったことを意味し、アメリカは一層警戒感を強めた。

何故この時、ルムンバは反国連、反西側(とくにアメリカ)というスタンスを取らざるを得なかったのか、何故、ソビエトとアメリカというボタンを掛け違えてしまったのか。それは結局ルムンバという人間、行動等々がアメリカ、国連を中心とした西側世界が営々として築き上げてきた権益を、ルムンバというある意味で稀有で純粋でそして予想外のアフリカ的存在が破壊すのではないかという危機感を抱いたからに他ならない。アメリカと国連の抱いた危機感が逆にルムンバを反アメリカ、反国連に走らせてしまったのだ。この時、何故国連がルムンバの要求通り、強制力を持った国連部隊をカタンガに進駐させ、問題解決を進んで図ろうとしなかったのか、それは、確かに内政干渉を避けるという意味では理屈であるが、時代が下ってアメリカによるソマリアの時の介入(飢餓を救うための軍事的人道介入ともいう)と比べてみると興味深い。

つまり分離独立の混乱には介入しないが人道のためには介入するという原則の胡散臭さについてである。つまり人道も分離独立(内政不干渉という建前)もアメリカを中心とした一部欧米勢力の恣意的判断によって決められるということだ。カタンガの場合、はじめの段階では、共産主義者=ルムンバのコンゴ中央政府から”地政学的スキャンダル”であるカタンガを切り離し、その鉱山権益を確保するという目的のために分離を黙認、だがやがて親アメリカ、欧米寄りのモブツがコンゴ中央政府の権力を掌握し、カタンガのチョンベとベルギーが邪魔になるにつれ、今度は国連の錦旗の下カタンガに侵入、カタンガ軍を徹底的に叩きコンゴに組み戻した。もちろん全てはカタンガの地下資源を”合法的”に奪取するためにだ。

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