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黒い鎮魂/ブラック・レクイエム 第13回

【変化の風】

しかし悪行は少しづつ外の世界へ漏れていった。3人の男たちの行動が国とは名ばかりのレオポルドの私有地で起きていることを次第に暴露していった。リバプールでコンゴからゴムを輸入する商船会社で働いていたエドモンド・モレルは、コンゴから輸入されるゴムの圧倒的多さに対して、ベルギーからコンゴへ輸出される商品が皆無に近く、貿易不均衡に着目、膨大な資料、聞き取りの中からコンゴで起きていることの理不尽さに気付き、「赤いゴム」「コンゴの醜聞」などといった告発の書を世に出した。二人目は、アイルランド生まれ、アイルランド独立運動に参加した美男の冒険家ロジャー・ケースメントだ。直情的理想家肌だったかれは、スタンレーの支援をする部隊に参加、スタンレーがコンゴを去った後も残り、コンゴ低地、大西洋にも遠くないマタディの道路建設に参加、強制労働の現実を目の当たりにした。後に人権団体CRA(CONGO-REFORM-ASSOCIATION/コンゴ改革協会)の設立を支援した。アメリカ長老派教会の一員としてコンゴに赴任したウイリアム・シェファード(アフリカ系アメリカン)もまたゴムの採取に関連して行われていた多くの非人間的行為を目の当たりにして、レオポルドの非道を世界に向けて告発した一人だった。追い詰められ、村を捨て難民と化した多くの村人たちを彼は追っ手(軍、ミリシア)から匿った。彼らの追及と暴露、そして熱い行動が残虐行為が日常的に行われていたレオポルドの私的王国を、まだましと思われたベルギー国歌へと委譲させる圧力となった。惜しむらくは、人権擁護的、現象の改善、改革に集中する余り、抑圧と搾取のシステム全体の廃絶というところにまでは行かなかった。ジャーナリズムからの告発という意味では、「闇の奥」の作者、ジョセフ・コンラッドもまたこうした男たちの隊列に加えてもいいかもしれない。

【ベルギー植民地支配】

強制労働、手の切断、人質、略奪などありとあらゆる非人道的行為、人権抑圧に対する国際的非難に耐えられなくなったレオポルドとベルギー政府は協議の末、1908年、レオポルドの私有地、個人財産であったコンゴ自由国(1885年〜1908年)を国王の手からベルギー政府が引き継ぐことを決定。ベルギー政府は王に対して多額の補償金を払い、植民地憲章を制定、政府直轄地としてコンゴを15の行政区画分け、直接植民地経営に乗り出した。ここに、国家、カソリック教会、巨大な私企業が一体となった新たな植民地支配が始まった。ここで改めてベルギーが一個人から引き継いだコンゴという土地について触れておかなければならない、総面積約234万平方キロ(スーダン、アルジェリアについでアフリカ第3位、日本、36万平方キロ)、サバンナからウッドランド、そして熱帯雨林に至るまで生物的多様性と農業的可能性に恵まれ、その中をナイル河についでアフリカ第二位、世界第五位のコンゴ河が無数の支流を集めながら大西洋に注いでいる。特に記さなければならないのは、その鉱物資源の豊かさだ。ウラン、ノビウム、タンタラム(コールタン)などの希少金属から金、ダイアモンド、さらにコバルト、銅、亜鉛、錫といった戦略的資源に至るまで、コンゴの大地の下には無尽蔵の資源が眠っている。人はこれを称して「正真正銘の地質学的スキャンダル」と呼んでいる。

ここでベルギーの植民地支配について知ることは、単にベルギーの支配について語るだけでなくその後のコンゴ、グレイト・レイクス(ルワンダ、ウガンダ、ブルンディなど)で起きる事件の根幹を作ったという意味で重要な意味を持つ。

ポルトガルの来航後の16、17世紀、統一コンゴ王国は衰退していったものの、コンゴはコンゴ、ルバ、ルンダ、クバなどの王国がコンゴ河の縦横無尽のネットワークを利用した交易などで栄えていた。やがて南米との交易のネットワークとも接触が始まると同時に、大陸の反対岸の東海岸(インド洋)にあるザンジバルやバガモヨといったアラブ、インド貿易圏とも接してゆくようになる、その鍵を握ったのがアラブ・スワヒリ人(当時、すでにインド洋、ペルシャ湾岸のインド、アラブ諸国、商人たちの多くはアフリカ東海岸に進出、多くの人間が沿岸部を中心に定住、アフリカ人たちと混血したスワヒリ人を中心に、次第に商売の範囲をアフリカ内陸部へと拡げていった)たちとの内陸における接触であった。19世紀に入ると、アラブ・スワヒリ交易商たちはさらに多くの奴隷と象牙を求めてコンゴ奥地に進出、やがて、レオポルド、ベルギーの利益追求と衝突することになる。

ベルギー植民地支配者たちは、コンゴ内の伝統的政治、交易システムを巧みに利用し、とくにterritoires(その上はdistricts,provinces)と呼ばれる統治単位の中でチーフを選抜し、ベルギー支配のための法と秩序の番人にした。ベルギー支配の根幹は税の徴収、強制労働、抵抗運動を抑えるための治安と秩序の確立であった。国際的非難、圧力の下でレオポルド王個人から国家が支配を引き継いだとはいえ、民主的改革はなされず抑圧と支配という根幹はほとんど変わりなかった。教育はカソリック教会に支配され、成人に対しては宗教と職業訓練が主で、子供たちに対しては基本的読み書きと数学がせいぜいであった。徹底的に愚民化し、わずかな覚醒、抵抗の芽でもすべて摘み取った。それは、アパルトヘイト(人種隔離)に等しかった。一方で経済面に関してはいくつかの改善、発展もあった。医療面の充実、とくに各地に診療所が開設され眠り病は撲滅された。最も目覚しかったのは、鉄道、道路、港湾、農園、鉱山の整備、発展であった。労働者人口も増え、当時(1908年から独立前後まで)としてはアフリカ最高の国民総生産を誇った。

だがそうした整備、発展がある目的のために特に集中的に行われたことを忘れてはならない、やがてそれがコンゴをはじめとしたグレイト・レイクス一帯の事件、問題と密接に関係してくるからだ。ゴム、材木(マホガニーなど優良材の宝庫)、コーヒーなどの農業部門は別として、最重要産業、それはいわずと知れたヤマ(鉱山)の開発だった。そこに抑圧と収奪、そして資本投下のほとんどが集中したといってよい。コンゴにおけるベルギー支配を語ることは鉱山開発を語ることに等しい。鉄道も港も道路もすべて鉱産物の積み出しのためにあったと考えてよい。それはゴムの採集と同様、膨大なコンゴ人労働力の調達、強制労働(強制労働はあらゆる公共事業に及び、年間120日を数え、飢えと病で死ぬ者も多かった)を意味した。結局、支配の要、根幹が「ゴム」から「鉱物資源」に変わっただけの話だ。表面的には近代産業を装っているがしかし、内実は苛酷な強制労働と変わることなかった。

そこにまた、南ア、アメリカ、イギリスを巻き込んだ奇奇怪怪、複雑なもう一つの物語が生まれ、展開してゆくのだ。それが後の選挙で選ばれた初代コンゴ首相パトリス・ルムンバの暗殺、さらにはルワンダ大統領、ジュベナル・ハビヤリマナ大統領撃墜暗殺へと繋がってゆくロング・ロードの始まりだった。

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