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黒い鎮魂/ブラック・レクイエム 第10回

【懸念】

60年1月、ベルギー政府から6月独立というお墨付きはもらったものの、準備のための時間も少なく、独立までの移行期間を司る行政院の設置が円卓会議で決められていたが、目の前には多くの現実的問題と不安が立ちはだかった。問題は独立までの間、行政から経済、さらに軍隊の再編に至るまで山積みだった。それに拍車をかけまたもっとも難しかったのがコンゴ在住でそれまで行政から経済活動に至るまでコンゴを引っ張ってきたベルギー人と、独立へ向けて全てを忘れたかのように一気に走り出したコンゴ人との間の心理的問題、不信感だった、お互いに信頼が置ける状態ではなかった。

コンゴ人たちのそれまで味わってきたベルギー権力による抑圧を考えれば、理解できなくもないが、しかし、長い間コンゴで働いてきたベルギー人にとってもそれは死活問題だった。本国に帰っても再就職できるという生活の保証はなかった。「コンゴ側といえども、ヨーロッパ人の不安を和らげる必要は重々承知していたけれども、できるだけ迅速にアフリカ人化することによって、コンゴ人民に独立の意味の深さを味合わせたい気持ちも、それに劣らず強かったのだ」(コンゴ独立史)。

ベルギーの積み上げてきた権益を守るという意味で、経済的調整(とくに投資、市場、鉱山関係の権益確保など)は重要な解決懸案ではあったが、さらにそれ以上に難しく、微妙だったのが、軍の維持、配分に関してであった。ことコンゴに限らず、軍と治安の問題は最重要問題、中枢であるいっていい。1960年当時、コンゴには4つの軍隊、警察部隊が存在した。ベルギー国防省直轄の首都軍(数千の陸上部隊と数多くの航空機)、ベルギー・コンゴ総督支配下の公安軍(Force Publique/2万7千人、約3千のベルギー人将校、下士官以外、全てコンゴ人の下級兵卒)、警察部隊(約7千)、そして3千のヨーロッパ人から成る義勇軍(外人部隊)だ。これらがベルギー植民地経営の要として、レオポルド王の個人支配地であった自由コンゴからベルギー政府が支配権を譲り受けた後、コンゴを支配、統治してきたいわばレイン(reign/君臨、手綱)の要であった。

支配の要諦からいってそれまでベルギーはまったくといっていいほどコンゴ人下士官、将校を育ててこなかった。ここに来てそうしたことは大きな問題となり、専門の行政官同様、急遽、育成が行われたが、しかし実効は上がらなかった。この点は、行政院の中でもすでに指導者としての頭角を現していたルムンバもまた危惧していた点であった。軍隊のアフリカ人化は必然であるが、現実的には、経験、能力の点からいってかなり難しかった。後にルムンバが首相に指名されコンゴの国づくりを目指そうとした時、もっとも地位の高かったのがわずか数名のコンゴ人下士官だったという現実が突きつけられた。さらに後にその中の一人、モブツにクデーターを起こされ、追放されたことを考える時、とくにアフリカ政治における政治家と軍隊の関係の難しさ、危険性というものを考えさせられる。

【選挙運動】

皮肉にも、そうした不安、懸念、不信を全て振り払ってくれたのが、独立の興奮と、はじめて経験する自分たちのための五月の選挙と選挙運動だった。準備機関である行政院はあったが、しかし法的に認知されたリーダーは誰一人として存在していなかった。そのことが各派、各部族間の政治的対立を激しく煽り、興奮の坩堝?と化したコンゴは全てを忘れ自分たちの派、部族から指導者たちを選ぶための選挙戦に突入していった。ブラッセルの円卓会議(60年1月)に出席していたそれぞれの指導者が帰ってくると選挙戦はさらに、激しく、本格化した。それぞれの地方で、政党間、部族間を軸に白熱した選挙戦が戦われたが、とくにルルア族とバルバ族間の利害が激しくぶつかるカサイ州では全土に非常事態宣言が発せられるほどであった。

そのほかのレオポルドビル州(コンゴ中央低地)、赤道州、キブ州、カタンガ州などでも激戦が展開された。中でもベルギーの予想を裏切る勢いでMNCがルムンバの人気、知名度、さらに組織力を生かして他を圧倒していった。ABAKO党、とかCONAKAT党といった地元部族を中心とした党の地元での勝利は別として、全体としてルムンバのMNC党が選挙に勝利した。ベルギー寄りで中道派のPNP党の勝利を信じていたベルギー当局のショックは大きかった。やがてそうした結果に危機感を抱いたベルギーなどによるアフリカ民主政治に対する揺り戻しは時を置かずして来ることになる・・・。だがひとまずこの結果を認めないわけにはいかなかった。

【演説――「ホワイト・モンキー」】

6月23日、ベルギー管轄の下で行われた大統領選挙と総理大臣選挙で、大統領には、伝統的にコンゴ政治に力を保持してきたABAKO党のジョセフ・カサブブ、そして首相には自党の選挙勝利を背景にすでにその力を認められていた若干35歳のパトリス・ルムンバが当選、ベルギー国王によってそれぞれ指名された。ルムンバは首相と国防省を兼ねていた。

ルムンバのこの国防省兼任は彼なりの策略があった。かれは自らの理想――統一された中央集権的コンゴへの脱皮、行政機構のアフリカ人化、部族主義、地方主義の壊滅などの実現のため、反対する全ての人間、党を粉砕するつもりでいたのだ。そのためかれは、コンゴ人軍隊の能力不足といった現実的不安とは別に、軍隊の中にベルギー的多くの要素をそのまま残しておいた、その表れが国防省の秘書官への現役ベルギー人将校の任命であった。しかしこの辺は当然他のコンゴ人から不評を買った。これはルムンバの独立観、コンゴ解放観からすると一見矛盾に満ちているが、実は、それは時を置かずしてやってくるカタンガ分離の動き、反ルムンバ派の巻き返しに対する予見と不安、対応でもあったのだ。その危機感は不幸にも的中し、独立式典(6月30日)直後直ぐにやって来る。その陰謀と激流に呑みこまれルムンバが暗殺されるまで、時はあと7ヶ月余りしか残されていない。

独立式典は波乱と緊張に満ちたものだった。一月に、ベルギーが「政治的」にコンゴを手放すことを決めてから、6月30日まで半年と経っていなかった、何がここまでベルギーをして急がせ、またコンゴをして走らせたのか・・・?、不手際、準備不足、不満と不信感、そして多分、策謀等々、あらゆるものが渦巻いていたにちがいない。唯一つ言えることはベルギーは本当に、コンゴ(の富と権益)を手放すつもりはなかったということだ。

コンゴ人が過去に、ベルギー植民地支配から受けた余りに酷い仕打ちに対する無念を胸に、式典におけるルムンバの演説は出席者のほとんどを驚かせる、ほど過激なものだった。

6月30日、朝から始まった独立式典は一見順調に進んでいるかに見えた。ベルギー国王(レオポルド2世の孫)をはじめ、首相のエイケンズ、カサブブ大統領、そして首相のルムンバ、各国代表が集い、それぞれ新しいコンゴの誕生を祝う祝辞を延べていった。ルムンバの番が回ってきた。

「過去80年の間、われわれが白人植民勢力の奴隷として受けた傷は、今日なお容易に癒ゆべくもない・・・朝な夕なに、ベルギー人から皮肉と侮辱の攻撃を浴びせかけられ、これを我慢してこなければならなかった・・・権力を振るう植民主義者は権勢をほしいままにし、コンゴ人を弾圧搾取し、しかもかれらはわれわれの同胞を一斉射撃によって殺した・・・独立は与えられたものではない。われわれの血と涙とで闘い取ったものである」さらに、有名な過激な発言が飛び出した、「われわれはもはやあなた方の猿ではない」。

当然会場には気まずさが漂い、とくにボードワン、ベルギー国王の顔は青ざめ、見る見る不機嫌になっていった、大統領のカサブブは困惑を隠せなかった。それは正しかったというべきか、或いはルムンバの政治家としての未熟を非難すべきか、しかし、発言が間違っていなかったことだけは恐るべき歴史が証明している。

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