Untold FRONTLINE [大津司郎サイト]

「アフリカ紛争が問いかけてくるもの」

●執筆事情

これは拓殖大学、「海外事情/2009年5月号」に掲載された小論文の原文です。

拓殖大学、甲斐信好教授(国際政治、民主化)の勧めにより、共同で「海外事情」誌に『アフリカ紛争が問いかけてくるもの』を執筆させていただいた。甲斐(敬称略)がはじめに今尚提起され続けている人間の安全保障問題の重要性と全般について、また論文の全体的調整を行い、その後、下記にあるようなアフリカ紛争現場が提起してきた個々のアジェンダ、事例を現地取材体験を基に大津がまとめ、問題の再提起をした。

個人的になるが甲斐とは、2005年以降、アフリカ・スタディツアーを催行、従来のNGO相互訪問、理解的スタツアではなく、アフリカ現代史、そして今ある人間の危機の現場を直撃訪問するツアーを行ってきた(場所によっては光り≠フ部分としてのサファリ・ツアーも体験)。何故なら、そこが決して日本にいたのでは感じ、考え、そして体験することのできない世界の最前線(フロントライン)であり、日々世界が提起するアジェンダ(政策課題)=スタンダードに満ちているからである。人間的危機、日々の苦難の中から学ぶことは少なくない。

参考までに、甲斐ゼミを中心としたこれまでのアフリカ・スタツア(条件が許せば他大学、社会人も参加可)は、

  1. 2005年:タンザニア/ストリート・チルドレン、HIV/AIDS患者との交流、青年海外協力隊訪問他
  2. 2006年:ケニヤ/カクマ難民キャンプ、ロキチョキオのOLS(スーダン生命線作戦)スーダン内戦緊急救援基地訪問、マサイマラ・サファリ・ツアー
  3. 2007年:ルワンダ虐殺現場(教会等)訪問、虐殺生存者との交流、ルスモ鉄橋(在タンザニア・ルワンダ難民帰還ルート)ほか
  4. 2008年:ルワンダ虐殺現場(教会等)訪問(+コンゴ紛争被災民キャンプ訪問を予定していたが、直前の戦闘再開によりコンゴ訪問を断念)、ルスモ(同)、ルワンダ・コンゴ国境の町ギセニ訪問
  5. 2009年<ケニヤ、その光と影>:ナイロビ・キベラ・スラム(HIV/AIDS患者たちとの交流)、マサイマラ・サファリツアー、2007年選挙後暴力(post-election-violence)によって家を追われた人々が暮らす被災民キャンプ(IDP-camp)訪問、ナイロビ証券取引所他

甲斐ゼミ・アフリカ・スタツアの最大のキーワード、それは「安全」を上回る「プライオリティ」はないだ。来年も予定。

◆はじめに

アフリカの四つの戦い(武力紛争)@ソマリアAスーダンBルワンダCコンゴの現場取材体験を基にそれぞれの事実関係を簡単に述べながら、それぞれの戦いと人間的危機が提起したアジェンダを取り上げる。ここでいうアジェンダの意味は、アフリカ紛争問題/人間的危機が提起する世界の最前線の問題とその核心部分、そして日本ではあまり議論されない世界のスタンダードのことである。同時にそのフロントライン(最前線)が提起したアジェンダ/問題の核心は、現実的平和そして人間の安全保障を模索するにあたって欠かせない出発点の一つである。残念なことに従来の日米、日中、日朝関係、さらに巷間安易に語られがちな平和構築、開発援助論的アプローチからはそうした世界のアジェンダは見えてこない。
戦後、さらにポスト冷戦の時代においても平和が既定の事実として考えられてきた日本では、武力紛争と人間的危機の現実の理解を飛び越えて平和が語られがちだ。しかし現実の戦いと人間的危機が提起する問題点を知り、また理解することなく何故、現実的平和を語ることができるのか。武力紛争と平和、それはコインの裏表である。戦いと平和の中から提起されたアジェンダの存在を知り、学ぶということは現実的平和を構築≠キるということである。

だが実際には、情報収集にせよ、また後の事例研究、さらにはメディア報道にせよ、こうした紛争=平和の問題に対する関心と重要性の認識はきわめて低い。

◆対象となる国(地域)
/先に挙げたように順に次の4つである/★@ソマリア★Aスーダン★Bルワンダ★Cコンゴ(BとCは時にグレイト・レイクス≠ニも呼ばれる)
◆それぞれの国の紛争が提起したアジェンダ(それぞれ複数あるがここでは一つにする)
@ソマリア/「軍事的人道介入/武装解除{1}」<すべての原点>:史上初めて人道のために武力(軍事力)を行使した。
Aスーダン(南北内戦)/「ゲリラ:ミリシア」<戦う大地/現代の戦いの主役たち>:かれらの理解なくして、現代紛争、人間の安全、地域の平和は見えてこない。
Bルワンダ/「ストップ・ザ・キリング/武装解除{2}」<正義はあるか>:誰がどのようにして、何故虐殺を止めるのか。
Cコンゴ/「虐殺の道/資源争奪(レアメタル)」<静かなる究極の最前線>:ルワンダ虐殺とコンゴの戦いの連続性、一体性、それがすなわち「虐殺の道」

★【ソマリア】

AGENDA:「軍事的人道介入/武装解除・1{安全に人道支援ができる環境を武力によって作り出すための武装解除(但し、次の段階、UNOSOM-2の時は国家再建のためのより強力な武装解除を実行、失敗)}」<すべての原点>

[メディア&NGO]冷戦崩壊と同時に米ソから見捨てられたシアド・バーレ独裁体制と氏族(クラン)を核とした反バーレの軍閥との間で熾烈な主導権争いが起り内戦状態となった。戦いは多くの一般市民を巻き込み100万を越す犠牲者(難民、被災民、死者、餓死・・・)を出した。冷戦時代、報道が規制されていた欧米メディアは、無政府状態の下こぞって世界に向けて画像を発信した。先進国の茶の間に向けて無数の痩せこけ骸骨状態の子供たちの写真、映像が途切れることなく送り続けられた。多くの同情が生まれた。欧米の良心≠ヘ「なんとかしろ!」と救済を叫んだ。食料を中心とした多くの救援物資がソマリアに送られると同時に世界中のNGOが殺到した。

〈UNOSOM-1〉だが事態は一向に良くならなかった。ソマリアの子供たち、一般市民は何故餓死するのか、何故、救援食料が届かないのか。ソマリアの武装勢力がNGOを襲い、食料を強奪するために届かないことが分かった。シアド・バーレ(ダロッド氏族)を追放した後、同じクランに属するファラ・アイディードとアリ・マーディ(ハイウェ氏族)の主導権争いが激化、国連、NGO襲撃も同時に急増した。さらに、武装勢力を「排除し、食料を届けろ」という声が上がった。ついに国連安保理に問題の対応が委ねられた。両派の停戦合意を受け、92年半ば以降、いくつかの安保理決議が採択され、停戦監視と救援物資輸送コンボイを守るUNOSOM-1が創設された。しかし襲撃は続いた。貧弱なパキスタン部隊を中心としたUNOSOM-1にその力はなかった。

[アメリカ]ちょうどその頃、湾岸戦争に勝利し、自信に満ち溢れたアメリカは、ブッシュ大統領(シニア)の下「新世界秩序」を提唱。ソマリアの人間的危機に対しても強い関心を示し、ソマリアのミリシア(Militia)たちを見下していたアメリカは積極的役割を買って出た。国連もアメリカの介入を歓迎。

AGENDA-1[軍事的人道介入]

1992年12月、安保理は決議794を採決、実効性の乏しいUNOSOM-1と並行しつつ、国連憲章第7章下、援助物資配給のための安全な環境を確立するためあらゆる手段を行使できる(all necessary means)<Aメリカ軍中心の多国籍部隊の派遣を承認した。史上初めて人道≠フために完全武装の軍隊(海兵隊を中心とした約2万8千)が動いた瞬間だ。アメリカはそれを希望回復作戦≠ニ名付けた。国連決議の範囲内とはいえアメリカにとってそれは武力行使を前提とした軍事作戦≠ナある。平和≠フ存在するところで平和の維持と監視をする単なるPKOではない。人道問題解決のために人道的、平和的方法を用いるのではない。人道(平和)のために軍事力を行使するのだ。専門家はそれをArmed-Humanitarianism/武装した人道主義と呼ぶ。人道危機に対して人道的方法による解決が限界を見せる現在(例えばダルフール、コンゴ)、このアイデアは決して色褪せてはいない。今なお問題(アジェンダ)は提起され続けているということだ。

AGENDA-2[武装解除--1]

ここにもう一つの究極のアジェンダが生まれる。[武装解除]だ。紛争によって引き起こされた人道問題/人間的危機が人道的/平和的方法(例えば話し合い)のみで解決できない時、武装解除(武力行使)という究極の選択が議論される。92年のアメリカ軍によるソマリア介入(UNITAF/希望回復作戦)はその点も視野に入っていた。現場の司令官レベルでは散発的にミリシアたちの武装解除を実行した、しかし全体として、武装解除を意味するあらゆる手段≠ヘ行使されなかった。何故なら、それ[武装解除]が極めて危険な究極の選択だからだ。

UNITAFによる「軍事的人道介入」(希望回復作戦)は食料配給や援助関係者の安全保護を十分に果たせないまま使命を終えた。それはソマリア武装勢力の完全武装解除に深く踏み込まなかったからだ。UNITAFが引き揚げた後、93年3月、決議814が安保理で採択、UNOSOM-2が創設された。アメリカからバトンを受けた国連は事務総長ブートロス・ガリの強い意向もあり、単なる人道のための介入からソマリアの平和と国家再建へと踏み込んだ(人道介入から国家再建へ踏み込む境界を専門家は「モガディッシュ・ライン」と呼ぶ)。警察組織、裁判制度、難民帰還、国民和解に至るまでソマリアの平和再建を託され2万8千の国連部隊を擁するUNOSOM-2は野心的だった。公式にはPEACE-KEEPING/平和維持≠セったが実質的には国連初のPEACE-ENFORCEMENT/平和執行≠セった。その核心に[武装解除]があった。平和と国家再建の成否の鍵を握るのはソマリア武装勢力の武装解除の実現だった。とくに強大なアイディード派の処遇は目前の課題だった。しかし結果はアイディード派との全面武力対決へと最悪の道を行くことになった。6月のアイディード派によるパキスタン兵待ち伏せ襲撃(22名が死亡)を機に国連は態度を硬化、安保理は事務総長に対してあらゆる手段を講じる権限を与え、アイディードの逮捕を決議した。この時平和建設への道は大きくカーブを切った。これはアメリカ軍を使った国連とソマリア武装勢力との全面戦争を意味した。ハリウッド映画、「ブラックホーク・ダウン」に詳しい。結果的にすべてのアイデア(人道と平和・国家再建のための武装解除)は失敗に終わった。

●メモ/「アイデアは死んではいない」と書いたが、しかしそれ(ソマリア)以降、人道のために、平和再建のために国際社会がこうした行動をとったことはない。コソボではアメリカ軍(クリントン政権)は地上部隊を送らなかった、その代わり空爆を行った。平和が存在するところにしか行けないPKOと、それは別物だ。平和(構築)を学ぶ諸氏にとってソマリアはすべての「原点」であり、真剣なすべてがここにある(あった)。そうした現実、具体例の中から平和と人間の安全保障というものを考えたい。

★【スーダン】

AGENDA:「ゲリラ・ミリシア」<現代アフリカ紛争の主役たち>

現代アフリカ紛争、すなわちアフリカ紛争地域における平和≠考える時、「誰とダレが、何故戦っているのか」について知り、理解することは重要だ。しかし日本で語られる平和構築、ポスト紛争地開発援助論の多くにはこの点の理解が欠落している(あるいは情報そのものが無いに等しい)。

「核」「弾道ミサイル」に関する数多の仮定の議論はさておき、ある専門家に言わせれば現代の紛争、軍事問題(=平和問題)の最先端、それは@「ゲリラ/インサージェンシー(Insurgency/反乱、反政府行動)」A「ミリシア/カウンターインサージェンシー(Counter-Insurgency/反・反政府活動)」、そしてB「テロリスト」の3つであるという。幸いに1945年以降、実際に核爆弾と長距離弾道ミサイル発射による人間の死は報告されていない。しかしアフリカ紛争、イラク、アフガンを見るまでもなく、ゲリラ・ミリシアたちによる地上戦闘はすでに数百万人の人間の命を奪い、今この時でさえ、多くの命が奪われている。96年から2008年のコンゴ紛争で死んだ人間の数は約500万、これは広島に落とされた核爆弾によって死んだ人間の数の約20倍、すなわち爆弾20発分に相当する。目の前の平和を考える時、ある意味、それは核の脅威以上に直近の人間的課題であり、現実の平和を考える時、今これ以上のアジェンダはない。このゲリラ・ミリシアの問題は政治経済、さらに民族、文化などと密接に関連し想像以上に複雑で難しい問題を孕んだまさに人間的アジェンダ(問題)といっていい。

[ゲリラ・ミリシア]

現代アフリカ紛争の中で、このゲリラ・ミリシアの存在、戦いが最も際立っているのがスーダンだ、2005年に終結した南北内戦、そして現在のダルフール紛争を見ればそれは明らかだ。紙数の関係でごく簡単に説明すると、ゲリラ/guerillaとは形的には小規模で移動性に富んだ攻撃集団であり、政治的には反政府武装勢力(レベルズ/rebelsともいう)のことをいう、一方ミリシア/militiaは立場的には正規軍に対する非正規軍、あるいは予備軍(paramilitary)のことをいい、政治的には通常政府系を指す。

[誰とダレが]スーダンの戦い/南北内戦、ダルフール紛争を例にとって言えばスーダン政府軍(SAF/Sudan-Armed-Force/アラブ系)に対して南部(スーダン)では、反政府ゲリラ、スーダン人民解放軍(SPLA/アフリカ系)が蜂起、戦いを開始。SPLAに対して、政府軍が直接戦火を交えると同時に、多くの場合、南スーダンとの国境付近に暮らすアラブ系(この定義は複雑なのでここでは踏み込まない)牧畜民を武装化、SPLAと戦わせ、さらに一般のアフリカ系住民(牧畜民、農耕民)を襲撃する。政府の手先となって戦うかれらはミリシアであり、かれらの属する部族の名前をとってバカラ・ミリシアとかミッシリヤ・ミリシアと呼ぶ。南スーダンでSPLAと戦ってきたミリシアたちのことを別名、「ムラヒリーン(旅人)」とも呼ぶ。ダルフール報道の中でしばしば出てくる「ジャンジャウイード(馬上の人)」は「ムラヒリーン」のダルフール版といっていい。一般的説明ではかれらはスーダン政府軍(政府)によって組織されたミリシアであり、それに対して反政府ゲリラ勢力のSLA、JEMといった武装グループが戦っている。

[何故(戦っているのか)]難しい話だが戦いを俯瞰してみると、ローカルな事情、ワケとグローバルなワケが複雑に絡み合っていることがわかる。@まずはじめに戦いの風土があった。牧畜民同士で行われる他部族、他集団に対する家畜強奪襲撃(cattle-raid)だ。これは勇気、サバイバルの手段、方法として正当化されていた(長老たちが戦いの行き過ぎをコンロールしていた、しかし大量のAK47などの銃火器が流れ込むやそれは難しくなった)。A次に南北スーダン国境付近で隣接するアラブ系牧畜民とアフリカ系牧畜民の水と牧草争いがあった。この戦いを北のアラブ人支配者たちは巧みに利用し、アラブ系牧畜民たちに武器を与え紛争を日常化させたB政治的経済的理由としては、北部のアラブ人重視、南部軽視、南部の貧困を放置してきたことに対する不満が爆発、南部のアフリカ系住民による反政府ゲリラ闘争が開始された(実際はここにさらに南部の分離独立か統一スーダンかという問題が重なり複雑だ)。また北部によるイスラム法の南部のアフリカ系住民への強制に対する反発もあった。こうして20年以上に渡って南北間の戦いは続いた。しかしその最大の理由、戦いの核心は南部に眠るC石油資源の争奪に在った。2005年の平和条約(CPA)締結後の現在も、石油の支配が、南北対立、戦いの中心であることはまちがいない。現在のダルフール紛争もまたそうした枠組みの延長線上(石油とウラン)にある。しかも南部、ダルフールのミリシアたちの武装化は、スーダン政府が中国に売った石油代金でなされているというさらに難しい問題がある。

●メモ/「キャトル・レイド」「水、牧草争い」「政治的主導権争い」「資源争奪」、そしてそれらの戦いを担う主役、ゲリラ・ミリシアたちの存在。こうした日常的戦いの環境下で、単に開発援助的思考と方法によってのみ平和の実現を考えることがいかに脆いかは戦いの現実が示している。ゲリラ・ミリシア問題、それは現代の平和のアジェンダの一つであり、スタンダードだ。

★【ルワンダ】

AGENDA:「ストップ・ザ・キリング/武装解除・2{ソマリアのような人道のためでも、国家再建のためでもない、より直接的殺戮阻止のための武装解除だ}」<正義はあるか>

ルワンダ虐殺のアジェンダ、ルワンダ虐殺が提起した問題それは「ストップ・ザ・キリング(誰が、何故、どうやって殺しを止めるのか)」に尽きる。これは国際社会に突きつけられた問題だ。ソマリアでは、「人道(支援)と国家再建のために武力を用いる(武装解除)」、スーダンでは、スーダンの複雑な戦いに「誰がどうやって平和(停戦)をもたらすのか」、そしてこのルワンダの「誰が、何故、どうやって殺しを止めるのか」、という共通の平和の問題とアジェンダ提起された。そこで最終的に問われているのはやはり誰がどうやって武装解除をするのかという問題だ。ソマリアで提起された「武装解除」が、人道支援のための安全な環境の確立、そして国家再建のため≠セったのに対し、ルワンダの場合、さらに直接的に殺戮(虐殺)を誰がどうやって止めるか≠セった。だった≠ニいうのは現実には、1994年4月から7月の間の約3ヶ月間、誰一人として積極的に殺戮を止めようとはしなかったからだ。本来10万人?ですんだ犠牲者数を、結果的80万人にしてしまったのだ。

80万人を殺した人間たちの罪と責任は国際司法裁判機構の下で堂々と日夜進められている、しかし、この80万人の望まない死、殺人を傍観した罪を裁くシステムは存在しない。

アルーシャ平和条約(93年8月)が結ばれ、停戦合意が成立したとはいえ、ルワンダ愛国戦線(ツチ族)とルワンダ政府軍(フツ族)の間は一触即発の緊張に包まれていた。もちろん、国連憲章第6章の下、平和の存在する≠ニころに送られた国連PKO部隊UNAMIRに、大統領機撃墜を機に一気に拡大したいわゆる「(ルワンダ)虐殺」を止める任務権限(mandate)は付されていなかった。しかし現実には大統領機が撃墜された4月6日以降、内戦が再開、停戦合意は破られた。維持すべき、監視すべき平和が失われたのだ。6章下のPKO部隊、UNAMIRはどうしたか?どうすべきだったのか?しかも目の前では猛烈なスピードで人間が殺されていった時に・・・。

存在の前提条件が崩れたので撤退すべきなのか、殺戮を目の当たりにして阻止(武装解除)に踏み込むべきだったのか。ここにストップ・ザ・キリング/アジェンダ≠フ核心がある。

出発点からしてUNAMIRは装備、陣容、財源ともに貧弱で、別名、貧者のPKOと軽侮されていた。目の前で繰り広げられる未曾有の惨劇に対して本来なら、即座に、6章から7章に引き上げ、全体の力、マンデート共に強化すべきだった。確かに個人的には、事態の異常さに気付いたUNAMIRの司令官ロメオ・ダレルは殺し屋たち(フツ族過激派他)の武装解除(マンデートの強化、変更、部隊の増員他・・・)実施の許可、権限をニューヨークの国連本部に求めた。しかしそれは却下された。事態を重く見た安保理も動いた。マンデートの強化、部隊増派等について議論した。しかし結果的にすべては却下、ことは実現しなかった。その間、フツ族過激派が豪語するように1時間で千人の割合でツチ族住民たちが殺されていった。(良心的)加盟国のUNAMIR強化、殺戮阻止の要求のすべてに抵抗、拒否した国、それは米英だ(何故かれらは執拗にUNAMIRの強化、殺戮の阻止に反対したのか、その裏に一体何があったのか。それはここでの直接的テーマではないので触れないが・・・/次に出てくるコンゴのAGENDAと関係してくるが)。さらに驚くべきことに、殺される人間の数が10万から20万、さらに30万と増え続ける最中に、UNAMIR派遣の前提である停戦が破られたとして、国連はUNAMIRの数を2500人から250人に激減させたのだ。つまりこれは「維持、監視」はやるが、それ以上の行為「平和の執行/武装解除」はたとえ目の前で、何人殺されようとやらないということを、国際の正義として宣言したことに他ならない。

もし仮にその時国際社会が本気で、本格的に介入、フツ族過激派の武装解除をやっていたら、これほどの犠牲者の数にならなかったかもしれない。それは国際社会として殺しを黙認、いや、容認したことに他ならない。この点に問われるべき罪はないのか。

その不作為の作為について見事に描いていた映画があった。ハリウッド映画、「ホテル・ルワンダ」だ。場面は、フツ族の追求から逃れホテルに身を隠していたツチ族が、国連の手配したトラック・コンボイに分乗し、飛行場に向って逃れようとする途中で起きた。フツ族過激派がコンボイを襲撃したのだ。十分とはいえないまでも、コンボイには護衛のブルーヘルメット(PKO部隊)が付いていた。しかし、フツ族過激派は護衛の兵士たちにはお構いなく、トラックの内部に侵入、次々とツチ族を襲った。問題は、その時PKO護衛兵士たちが見せた行動だ。目の前で、殺されているのにも関わらず、兵士たちは、携帯していた銃を襲撃者たちにではなく、空や地面に向って発射していたことだ。自己防衛を越えた発砲、ましてや殺戮の阻止といった権限は彼らのマンデートにはなかったからだ。マンデートに既定されていない限り、目の前の殺しも容認する。それが94年、ルワンダの現実だった。襲撃者たちはそれをあざ笑うかのように、易々と次から次へとツチ族を屠っていった。「ストップ・ザ・キリング/殺戮阻止」はできなかった、いや、しなかった。1994年、テーブルの上(国際法)の正義は別として現実の正義は存在しなかった。

●メモ/武器使用、交戦規則、マンデート、武装解除、さらに人間の良心、モラル、そして正義の問題等々、誰が、どういう理由、根拠で殺戮を止めなければならないのか、という根本的問い、問題がそこには提起されている。それは紛れもなく平和の問題それ自身だ。

★【コンゴ】

AGENDA「虐殺の道=レアメタル争奪」<静かなる究極のフロントライン>

サイレント・フロントライン(静かなる最前線)という意味は、イラク・アフガンの反テロ・ワーほど派手ではなく、メディアの関心も薄い、しかし、逆にあまり世間に知られてはならない究極の戦いの最前線という意味。誰にも知られることなく、直接軍隊を派遣することなくコンゴの財産(資源)を盗み、強奪してゆくためには目立ってはならない。

コンゴが提起する問題、アジェンダはルワンダの問題と密接に繋がっている。私はその連続性、関連性を次のように読んでいる。「ルワンダ虐殺は、500万の命を奪い、そのドサクサに膨大な資源を強奪されていったコンゴの戦いの序曲/プレリュードだった」と。その限りにおいては、ルワンダ虐殺は仕組まれた、あるいは何者かの手によって仕掛けられた事件であると。何者か≠ニいうのは、ルワンダ、ウガンダという地元エージェントであり、さらにその背後にいた欧米の多国籍(鉱山)企業であり、それらと一体化し、後方支援を担っていたPMC(民間軍事会社)などである。

[難民脱出]:これまで、ルワンダ虐殺の一般的見方として、「何故隣人が隣人を殺すのか」とか「(フツ族の)殺しの残虐性」とかといった、人間的悲劇の側面ばかりが強調されてきた。しかしそうした見方だけから見ていると、ルワンダ虐殺とコンゴ戦争の全体像は決して見えてこない。一方、ルワンダ虐殺とコンゴ戦争の連続性、一体性の見方に立つ時、そうした未曾有の人間的悲劇以上に注目しなければならないのは、RPF(ルワンダ愛国戦線/ツチ族)の勝利が決定的となった7月10日以降に起きた100万を越すフツ族難民の隣国コンゴへの脱出、壊走である。かれらの脱出、そしてコンゴにおける巨大なフツ族難民キャンプ群の出現こそが、この「ルワンダ―コンゴ物語」、の核心部分、すなわち第二幕の始まりだったといっていい。

[戦略的難民キャンプ]:戦略的難民キャンプの出現/それは単なる難民キャンプではなかった。それは旧ルワンダ政府、政府軍、そしてインテラハムウェなどミリシアたちが作り出したミニ武装国家だった。旧政権は敗走の中官僚機構から国家歳入(現金、輸出用のお茶等々)に至るまでまるで計画的だったかのようにすべてを持ち出した。豊富な資金で次々に武器を購入して行った。キャンプはルワンダへの反攻基地化した。そこから越境攻撃が繰り返された。一方、ルワンダ新政権(RPF)にとってそれは自らの安全のため粉砕、壊滅すべき最大の攻撃目標となった。「越境反攻/フツ族」と「侵攻、壊滅掃討/ツチ族」、キャンプは単なる難民キャンプではなかった。しかし(盲目的)国際社会は、犯罪者たち(殺戮、略奪)が支配するキャンプに対しせっせと食料をはじめとした救援物資を垂れ流し続けた。犯罪者たちを無批判に支援する国際社会に対して新政権(RPF)は苛立った。

[第一次コンゴ(ザイール)侵攻]:96年10月、RPFがコンゴへと侵攻(第一次コンゴ侵攻/当時はザイール)、その後10年以上続くコンゴの戦いの幕が上がった。かねてからの計画通り、コンゴへと侵攻するRPFとコンゴ国内で組織されたADFL(コンゴ解放民主同盟)とが合流、一体化。頭(リーダー)こそ、コンゴ人のロラン・カビラであったが、ADFLの実体は事前にルワンダ国内で軍事訓練を受けたバニャムレンゲと呼ばれるツチ族のルワンダ移民たちであった。

[難民キャンプ攻撃破壊]:コンゴ侵攻の第一段階、それは難民キャンプの壊滅、フツ族過激派掃討にあった。キャンプ内の旧ルワンダ政府軍、フツ族民兵たちの抵抗にもかかわらず、強力な重火器で武装、機動力に優れたADFL/RPFによってキャンプは数日で破壊された。[難民スプリット(分断)]:大半の一般難民たち(フツ族)は機を見て雪崩を打ってルワンダに帰還。一方機に乗ずることのできなかった40〜50万の難民たち(フツ族)は、ルワンダとは反対のコンゴのジャングルへと逃亡、その中心は、ルワンダへ帰れば殺されるか、あるいは厳しい訴追を受けることになる虐殺の実行犯、とその家族、親戚たちだった。しかし多数の一般難民たちもまた過激派の脅迫によって、逃亡の楯、人質としてジャングルへと追い込まれた。

[報復/追撃]:ADFL/RPF(ツチ族)のコンゴ内逃亡グループへの追及は厳しく、急だった。彼らのコンゴ侵攻の第一の目的、それは「報復」だった。虐殺の実行犯たちだけでなくフツ族全体がかれらの報復攻撃のターゲットだった。かれらはジャングルの奥深く虐殺犯たち(フツ族)を追った。

[アメリカの影]:第一次コンゴ侵攻の際、相当数のアメリカ兵の姿が目撃されていたという(フランス他複数の情報筋)。アメリカ軍の偵察機が上空からジャングルを彷徨うフツ族難民集団の居場所を特定、それを地上のADFL/RPFに伝達、その情報を基にツチ族の軍隊は現場に急行、フツ族を殺害。その数はある報告によれば、30万とも40万ともいわれている。こうした報復的殺戮をカウンター・エクスターミネーション、あるいは第2虐殺と呼ぶときもある。その間、東コンゴ一帯は封鎖されていた。当然こうした行為はADFLのリーダー、ロラン・カビラ氏の同意の下に行われた。

[鉱物資源]:ADFL/RPFのコンゴ侵攻の第二の目的、そして影で動いていたアメリカの目的は何か。「報復/カウンター・エクスターミネーション」に続くRPFの目的、それは戦いの継続資金確保他の「ヤマ(鉱山)支配/鉱物資源獲得」だ。アメリカもまたコンゴの地下に眠る「鉱物資源獲得」(ADFL/RPFの勝利が確実になるやリーダーのカビラの下に米英、カナダ、南アの鉱山企業が契約のために殺到)に強い関心を持っていたが、さらにアメリカには、アフリカ中部から「フランスを追放」し、それによってルワンダ、ウガンダを核とした中部アフリカの「権益再編」、「グローバリゼーションの推進/市場化」という世界戦略の実現という自己目的があった。

[取引/ロラン・カビラ]:RPF(ルワンダ愛国戦線/ツチ族)の目的については上記した。しかし武力で圧倒しているとはいえ、場所はコンゴ、他人の土地だ。そのため、ADFL(コンゴ解放民主同盟)を組織、長い間、反モブツ(大統領)の戦いを続けてきたコンゴ人、ロラン・カビラを頭に据えた。RPF(カガメ司令官:当時)とカビラの間に密約、取引があったといわれている。それは、ツチ族(RPF)にコンゴの土地で軍隊を動かし、フツ族報復(殺戮)を認める代わりに、モブツ打倒のためにカビラを助けることだったという。恐るべき取引である。そして事実はそのようになった。コンゴ侵攻から7ヵ月後の97年5月、モブツは権力の座から追放され、カビラが大統領の座に就いた。(余談であるが、それから3年後の2001年1月16日、カビラは暗殺された。およそ40年前のその日、コンゴの初代首相、パトリス・ルムンバが欧米植民地主義者の手によって暗殺された日だ)。

●メモ/そこ(コンゴ)にAとB、たとえば2009年の今で言えばツチ(CNDP/コンゴ内ツチ族で組織された武装政治集団)とフツ(FDLR/94年当時のフツ族過激派、難民を中心とした反ツチ武装組織)がいる限り、そして莫大な利益のために彼らを利用する者たちがいる限り、戦いは終わらない。植民地主義者、そして現代の資源争奪、欧米にとってコンゴは現代の巨大なワーゲーム・リザーブ(戦争保護区)といっていい。もちろんコンゴ人自身はそうした状態から一刻も早く抜け出したいと願っている。

★【日本】

AGENDA:「そこにいない日本」<紛争取材から見えてきた日本>

結局私がアフリカ紛争取材を続ける中で最も見えてきたもの(アフリカ紛争の原因、問題点等は別として)、それは、戦後60年、そうした場所と問題点(私が考える最前線とアジェンダ)に日本がいないということだ。今、アフリカのそうした場所と問題点には世界が集い、さらに殺到している。その最前線に日本はいない、あるいは日本の影が極めて薄い。しかし現実にはその陰で、例えば国連などを通じて日本の貢献はずば抜けてさえいる。何故そこにいないのか。何故そのことをプレゼンできないのか。単にそれは平和憲法の存在、規制といった点だけでは論じられない「島国国家、民族」の出口、未来がかかった問題とさえ言える。今、開発援助(AID、HAND-OUT)だけではダメなのは常識だ。同時にビジネス投資が求められている。やれ人権無視だ、独裁政権を支援していると(反面教師)中国のアフリカ進出を批判するのはいともた易い。だが、かれらはかれらなりに最大限の知恵を絞り、リスクを負い、身銭を切って「ビジネス」を展開している。ビジネスをアフリカでやること、それは「人」が外(アフリカ、アジアあるいは南米に)に出て行くことだ。そこには必ず経験と教訓に満ちた新しい世界、日本人が久しく失ったフロンティアが開ける。当然、元気をなくした「島国国家、民族」、日本の新たな人材もまた生まれる。アフリカは日本を待っている(*こうした見方は、別項「アフリカ・フロントラインから見えてきた日本」との関連で読まれると、より面白いと思います)。

★そして見えてきた日本、そこにいない日本。これがアフリカ現代紛争最前線(とその現場取材)が私に提起してくれた最後のAGENDAといっていい。